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礼拝説教

9月27日の礼拝説教
2020-10-05
ヤコブの手紙1章9~11節        2020年9月27日(日)
 「低くされることを誇る」     藤田 浩
 
ヤコブの手紙をご一緒に読んでいますが、今日の1章9~10節前半にこう言われています。「貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。」これが今日の聖書が語っているメッセージですが、すぐにはピンと来ない御言葉です。「貧しい兄弟」ということは分かりますが、その人が「高められる」とはどういうことでしょう。また「富んでいる者」というのは分かりますが、その人が「低くされる」とはどういうことを言うのでしょう。
 まず、「貧しい兄弟」はヤコブの手紙においては、社会的・経済的に貧しいキリスト者たちのことが念頭に置かれていたでしょう。当時の教会には、裕福な商人や皇帝に仕える役人のような人たちもいましたが、奴隷身分の人たちやその日その日を暮らしていくのに精一杯の人たちもいたのです。
 私たちの時代も、相対的貧困ということが問題になっています。日本人の平均収入の半分以下で生活している世帯が、13.9%(2015年)もあると言われます。そうした家庭では、食費を切り詰めるために母親が十分な食事を摂っていない。子どもたちも、金銭的な理由で大学の進学を諦めたり、家計を支えるために毎日のようにアルバイトをしていると言われます。子ども食堂が各地で開かれている背景には、そうした相対的貧困があります。
 そのような社会的・経済的貧困は、国や自治体の政策によって解消されなくてはなりませんし、様々な援助を受けることも必要です。また「貧しさ」には、社会的・経済的なものだけでなく、精神的な貧しさや肉体的な貧しさといったものもあるでしょう。それらの「貧しさ」自体が良いものであるとか、誇れるものであるというのでは、勿論ありません。
「自分が高められることを誇りに思いなさい」とあります。旧約聖書以来、「神は低き者を高めてくださる」という考えが聖書を貫いています。色んな意味での「貧しさ」に甘んじなければならないのは、確かにやるせないことです。辛いことです。しかし、人はその貧しさの中で、気づかされることがあります。神さまがその貧しさにおいて、私たち人間に近づこうとしてくださっていることです。神さまは御子イエス・キリストを、貧しい馬小屋の飼い葉おけに誕生させました。そして御子イエス・キリストを、人間の罪の償いのために犯罪者たちと共に十字架にお付けになりました。これ以上に貧しい姿はありません。しかしそれは、色々な貧しさを経験せざるを得ない人間が、そこで絶望ではなく、私たちと共にあろうとする神さまを、見出すためであったのです。傍らにおられ、共に歩んでくださる主イエスが、貧しい私たちを救いへと引き上げてくださった。罪を赦し、神の子たる身分へと引き上げてくださった。だからこそ、貧しい兄弟はそのことを誇りに思いなさい、と言われるのです。
では、「富んでいる者は、自分が低くされていることを誇りに思いなさい」とはどういうことでしょう。富んでいる者については6行にわたって記されており、著者の強調点がこちらに置かれていることは明らかです。こちらの場合も「富んでいる」こと自体が、悪いとは考えられていません。生まれながら、様々なものに富んでいる人はいます。生まれながら富んでいるという状況を引き継いで行かなくてはならない人たちもいます。
しかし「富んでいる者」にとって、「自分が低くされる」ということが大切です。「富んでいる者」は低くされているからこそ、自分を誇れるのであって、それ以外ではないのです。この「自分が低くされる」ですが、英語の翻訳では「恥をかかされる」、「屈辱を味わう」という言葉が使われています。自分が追い求めてきたことがダメ出しをされ、面目を失うといった感じでしょうか。今まで自分のやって来たことが否定された。そのことを誇りに思いなさいと言うのです。これは、どういうことでしょう。
前回のところを少し思い出していただきたいのですが、神さまに対して「二心を持ってはいけない」と戒められていました。1章8節に、そのような者は「心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です」と言われていました。「二心をもつ」とは、神さまも信じるけれども、他のものにも信頼を置く人のことです。「富んでいる人」というのは、この誘惑が大きいのです。旧約聖書の時代から、富が神に敵対する人間の偶像になってしまうことが、何度も戒められてきました。
地上の富は、お金を考えてみると分かることですが、この世において大変頼りになるものです。「世の中にお金で買えないものはない」と豪語する人もいます。そうでなくても、お金が自分や家族の人生を守ってくれると考えて、私たちは生命保険に入ったり、貯金をしたりするのではないでしょうか。確かに地上の富は、そういった意味で、安心と安全をもたらしてくれます。
しかし、そのことが逆に災いをして、お金以外のものが見えなくなってしまう。
神さまを頼みとせず、この世の富だけを頼みにするようになってしまうのです。今まで見えていた神さまのお姿が、まったく見えなくなってしまう。貧しい者は貧しさの中で神さまを見出しましたが、富める人は富に夢中になるあまり、神さまのお姿を見失ってしまう。富んでいる人には、はるかにその誘惑が大きいのです。だからこそ手紙の著者は、そのようなあり方にダメ出しをされ、面目を失い、正気に引き戻されることが、富んだ者には大切で、誇りとなると言うのです。
 そして10節後半から11節で、富を偶像としてしまう人がどんな人生を歩んでしまうか、パレスチナの自然を題材に描き出してみせるのです。「富んでいる者は草花のように滅び去るからです。日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます。同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消え失せるのです。」パレスチナの気候は寒暖の差が激しく、日中は灼熱の太陽が地面を照らします。それに伴い、南東のアラビアからは熱風が吹きつけ、朝に生えていた草花も一瞬にして枯れてしまうのだそうです。ある注解者は、高温に熱せられたオーブンを空けたときの熱風のようだと言っています。比較的穏やかな自然の中で暮らす日本人には想像できませんが、朝生えていた草花がどこにあったか分からなくなってしまうような激変が、そこでは起こるのです。
 富んでいる人は、外見的にも、その暮らしぶりにも、美しさを湛えていたかもしれません。その様子は人々の羨望の的であったでしょう。しかし、人の命は何の前触れもなく、突然取り去られることがあります。主イエスが話された「愚かな金持ち」のたとえ話が、思い起こされます。有り余る財産と豊かな収穫を納める倉を建てた金持ちは、「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と、自分に言いました。彼は富によって、心配のない将来を確保したと思いました。しかしまさにその夜、金持ちの命は、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」という御言葉と共に取り上げられてしまったのです。
 富んだ人はますます富を追い求め、富の力で人生を揺るぎないものにしようとします。その思いはどんどんエスカレートします。しかし、富んだ者に必要なのは、人は突然地上から取り去られることのある者であり、その事態に直面したとき、富は全く無力であると悟ることです。そして、今までの生き方にダメ出しをされて、本来あるべき自分の姿に引き戻されることです。人には地上の富以上に頼りになる方がおられ、その方は私たちを愛し、死をも乗り越えさせてくださる永遠の命を与えてくださると信じることです。そのことによって、富という偶像を拝む息苦しさや束縛感から解放されます。イエス・キリストの父なる神だけを礼拝する純粋な思いと、何物にも捉われない平安な心を与えられます。だからこそ手紙の著者は、「富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい」と、心を込めて諭しているのです。
 あるテレビ番組を見て知ったのですが、藤井風という若いシンガーソングライターがおられます。岡山弁を話す素朴な感じの好青年で、ようやくこの秋メジャーデビューしようとしている人です。この藤井風さんに「帰ろう」という歌があります。色んな聞き方ができるのかも知れませんが、私には人生を終え、世を去って行く人の思いを歌っているように感じました。ミュージックビデオを見ますと、色んな世代の人たちが、藤井さんを含め、前に向かって進んで行きます。ある人はさらにその先に進んで行き、ある人たちは進んで行く人を見送っているようにも見えます。二人で手をつないで先に行こうとする高齢のカップルも見えます。そういうシーンの続く中で、こんなふうに歌われるのです。
…わたしのいない世界を/上から眺めていても/何一つ 変わらず回るから/少し背中が軽くなった。
 それじゃ それじゃ またね/国道沿い前で別れ/続く町の喧騒 後目(しりめ)に一人行く/ください ください ばっかで/何も あげられなかったね/生きてきた 意味なんか 分からないまま
 ああ 全て与えて帰ろう/ああ 何も持たずに帰ろう/与えられるものこそ 与えられたもの/ありがとう、って胸をはろう/待ってるからさ、もう帰ろう
幸せ絶えぬ場所、帰ろう/去り際の時に 何が持っていけるの/一つ一つ 荷物 手放そう/憎み合いの果てに何が生まれるの/わたし、わたしが先に 忘れよう   
あぁ今日からどう生きてこう
曲があってこその歌詞なのですが、この地上で持っていたもの、抱えていたものを手放して、心解き放たれて、先へ向かおうとする気持ちが伝わってきました。
こんな気持ちで世を去ることができたらいいなと、心が軽くなるような思いがしました。そして私たち信仰者には、その進む先に待っていてくださる方がおられます。私たちの歩みを、愛をもって導いてくださった神さまが、待っていて下さいます。そのことに、私たちは何とも言えない安らぎと希望を与えられます。二心なく神さまを信じる者の幸いが、ここにはあるのです。(2020年9月27日)  
 
 
 
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