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礼拝説教

9月13日礼拝説教
2020-09-21
ヤコブの手紙1章1~8節(Ⅱ)        2020年9月13日(日)
「人生を導く知恵」            藤田 浩喜
 先週からヤコブの手紙を読み始めていますが、今日は1章1~8節の2回目です。先週は信仰者が試練に遭うとき、それを忍耐して受け留めることで信仰が強められていくこと、試練に遭遇する兄弟姉妹に寄り添うことができることを学びました。今日の箇所の後半5~8節では、「知恵」に欠けてはいけない、「知恵」を神さまに願いなさいと、ヤコブは勧めているのです。
 
 5節を読んでみましょう。「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてをしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。」「知恵」と言われていますが、「知恵」とはなんでしょう。長年の努力と研究によって得られた科学的知識のようなものも「知恵」と言えるでしょう。あるいは人生において様々な経験をする中で習得してきた知見やコツのようなものも「知恵」と言えるでしょう。
 しかし今日読んでいただいた旧約聖書 箴言3章13節以下で、「知恵」はこう歌われていました。13~14節「いかに幸いなことか/知恵に到達した人、英知を獲得した人は。知恵によって得るものは/銀によって得るものにまさり/彼女によって収穫するものは金にまさる。」知恵は、地上の金銀にまさる値打ちのあるものであることが分かります。そして17~18節では、こう続きます。「彼女の道は喜ばしく/平和のうちにたどっていくことができる。彼女をとらえる人には、命の木となり/保つ人は幸いを得る。」知恵はそれを得た人に、喜びと平和、命と幸いをもたらすことが語られます。そして、その知恵とは人間の知恵ではなく、主なる神の知恵であることが明らかにされるのです。19節以下です。「主の知恵によって地の基は据えられ/主の英知によって天は設けられた。主の知識によって深淵は分かたれ/雲は滴って露を置く。」
この知恵は、人間の知恵ではなく神からの知恵です。現実をありのままに見つめながら、背後に隠されている神の御心を正しく捉えて、それに従って決断し、行動を起こさせる知恵です。その知恵は自分を愛することのできる知恵であり、自分に与えられている地上の生を大切だと知らせてくれる知恵です。箴言で歌われていたように、生きていることを喜ぶことができるようにさせてくれる知恵です。そういう知恵が私たち人間には必要なのであり、そのような知恵を神さまに願いなさいと、著者ヤコブは言うのです。
 
しかし、そのような神からの知恵をどうやって私たちは得ることができるのでしょう。「だれにでも惜しみなくとがめだてをしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい」(5~6節前半)とあります。お与えになる神さまと、疑わず信仰をもって願う人間が、ここでは呼応関係に置かれます。神さまは、「だれにでも」お与えになります。富める者も貧しい者も、この世で重んじられている者もそうでない者も、経験のある者もない者も、「だれにでも」お与えになります。これが第一点です。第二点は「惜しみなく」です。神さまは出し惜しみなどなさいません。求められたものを求められたままに、気前よく出して下さるのです。そして第三点として、「とがめだてをしないで」です。これについてある人は、次のように注釈しています。「とがめだてをしないでという言葉が付け加えられているのは、だれかがあまり何度も神に来ることを、恐れないようにするためである。人々の中では、最も寛容な人であっても、だれかが何度も助けを願うと、前に親切にしてやったことを述べて、もう将来は助けない口実をつくるものだ。しかし、神はこのようなことはない。神は終わりも限度もつけないで、神の祝福に新しいものを加える用意がある。」神さまは出し惜しみすることもなさらず、「そんなものまで求めてくるのか」と責めたりすることもなさらずに、何の条件も取り引きもなさらずに、私たちに必要な知恵を与えて下さる、それが神さまであるということです。
このような神さまに願うのですから、私たち人間の願い求めも神さまに呼応していなくてはなりません。100パーセント与えて下さる神さまに、人間の方も100パーセントの願い求めをしなくてはなりません。「ひたすら与えること」が神さまの本質であるなら、「ひたすら祈ること」が私たち人間の本質でなくてはなりません。だからこそヤコブは、「知恵」を求めようとするときに、「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい」と勧めるのです。
 
反対に、そうでない求め方や願い方をするならば、どうでしょう。ヤコブは私たちの現実を見透かすのように、こう言うのです。6節後半~8節です。「疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。」そういう人は「心がさだまらず」と訳されていますが、元々の意味は「二つの心」という言葉です。私たちの中に二つの心があって、こっちに行ったりあっちに行ったりするのです。その様は、「風に吹かれて揺れ動く海の波」にもたとえられます。風が海の波を大きく動かすことは、この前の台風10号でも私たちが見聞きしたことです。波にコルクが浮いていたとします。すると風が吹くとコルクはどうなるでしょう。岸辺にいたかと思うと、すぐに沖の方に流されてしまいます。留まるところを知りません。そのコルクのように、私たちの心はあっちに行ったり、こっちに来たりして、落ち着くことがありません。その結果、生き方全体が安定を欠いた、不確かなものになってしまうのです。その人は、二つの心、二つの魂を持つ者です。一方で神を信じていると自分のことを認めながら、他方で神を信じることの愚かさや頼りなさを心に抱いている者です。目に見えないものの中に確かさがあると思いながら、他方で目に見えるこの世的事物にしっかり頼っている者です。神に向かって祈りはするけれども、同時に祈っても聞き届けられることはないと、心のどこかで考えている者です。心の内側に響いて来る上からの声に耳を傾けながら、同時に外から届くこの世の声にも従って行く者です。それが二心の者であり、心が定まらない者であり、したがってその人は生き方全体に安定を欠く者になってしまう、とヤコブは言うのです。
こうした「二心をもつ」ことは、私たちにも無関係ではありません。それどころか、私たちは心を見透かされてしまったような「ばつの悪さ」を、感じているのではないでしょうか。しかしヤコブはズバッと、「そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません」と言います。信仰者として生き抜く「知恵」を、神さまからいただくことはできないと、断言するのです。
 
しかし、神さまはそのような私たちの弱さや煮え切らなさをも、ご存じです。そのような二心に揺れる私たちが、神さまにのみ、ひたすら心を向けることができるように、私たちへの愛がどれほど深く大きいものであるかを、示されます。それだけでなく、弱い私たちがひたむきに神さまに求めることができるよう、「聖霊」を与えて下さるのです。
使徒パウロはローマの信徒への手紙8章31節以下で、こう言っています。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」神さまは私たちすべてのために、最愛の御子をさえ惜しまずに、ささげてくださいました。神さまの私たちへの愛の深さと大きさは、御子イエス・キリストの十字架にさやかに啓示されています。このお方を他にして、私たちが依り頼むお方は他にありません。私たちはこのお方だけを見つめ、このお方だけに我が身をゆだねるとき、「我が心、さだまれり」と決断することができます。それによって私たちの生き方全体が、揺らぐことのない確かなものにされるのです。
また、主イエスご自身がルカによる福音書11章9節以下で、こう言われています。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」主イエスは、あなたがたの願う神は、人間の父親よりももっと、子どもの願いを聞いてくださる方であると言われます。そこに、私たちが神さまに願い求めをする拠り所もあります。そして最後に主は、次のように言われるのです。「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(13節)。神さまは私たちが弱い者であり、煮え切らない者であることをご存じです。そのような私たちが、信仰者として生き抜く「知恵」を神さまからいただくことができるよう、神さまは聖霊を働かせてくださいます。神さまご自身が聖霊を注ぎ、私たちがただひたむきに父なる神と向かい合って生きていけるよう、私たちを整えてくださるのです。そこまで懇ろ(ねんごろ)に私たちを導いていてくださるのが、私たちの信じる神さまなのです。この神さまを心から崇め、感謝と讃美を捧げましょう。そして、信仰者として生き抜いていくための「知恵」を、一途に祈り求めていきましょう。(2020年9月13日)
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