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礼拝説教

9月6日礼拝説教
2020-09-14
ヤコブの手紙1章1~8節(Ⅰ)        2020年9月6日(日)
「信仰と忍耐」                藤田浩喜
 今日からヤコブの手紙をご一緒に読んでいきたいと思います。ヤコブの手紙は、ヤコブという個人が送った手紙と考えられています。このヤコブとはだれか、12弟子の一人であるゼベダイの子ヤコブなのか、ゼベダイの子とは違う方のヤコブではないか。また、主の兄弟である弟ヤコブではないかとも言われています。学者の間でも結論は出ていませんが、主の兄弟ヤコブを尊敬し、彼の名前を借りて書かれた手紙ということにしておきたいと思います。手紙の受取人はだれか、今日の1章1節は、「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします」と言っています。この手紙の書かれた紀元1世紀末に、旧約聖書のイスラエルの十二部族はもはや存在していません。しかし主イエスに呼び集められたキリスト教会が、新しいイスラエル、新しい12部族として立てられていました。ヤコブはおそらく当時地中海世界で誕生していた各地のキリスト教会に向けて、この手紙を書いたのでしょう。その意味では新しいイスラエルに属する現代の私たちにも、この手紙は向けられているのです。
 ヤコブの手紙は宗教改革者マルティン・ルターから「わらの書簡」と呼ばれました。主イエスの名が2回しか出てきませんし、主の十字架と復活のことがどこにも触れられていないからです。大切な教理を欠いている、内実が無いということで「わらの書簡」と呼ばれたのでしょう。しかし、多くの注解者が言うように、この手紙はそうした教理や信仰上の教えを前提とした上で、キリスト者の具体的な生活やその行いについて、鋭く教えを述べているのではないでしょうか。主イエスを信じる信仰によって救われたキリスト者が、その救いにふさわしくどのように聖化の生活を送ったらよいのか。そのことを旧約の箴言のように、格言風に説いているのがヤコブの手紙と言えるように思います。「箴言」は漢字文化の中で命名されたものですが、ツボを突く言葉という意味を持っています。新約の箴言であるヤコブの手紙も、私たち信仰者の日頃の生活や行いを、ツボを突くような鋭さで問い直してくれるのです。
 
 それでは本文を見ていきましょう。1章2節にはこう書かれています。「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。」この御言葉には驚かされます。試練とは、私たちの生活を一変させてしまうような困った出来事、つらい出来事、悲しい出来事です。私たちは試練に遭うと動揺し、立ちすくんでしまいます。それなのに、試練に遭ったらこの上ない喜びと思いなさいとは、どういうことでしょうか。これは一般社会の人たちが、受け入れられることではありません。神さまを信じ、救い主イエス・キリストを信じるキリスト者が、その信仰の故に受け入れるべきことだと思います。
 「試練」という言葉は、元の言葉で「ペイラスモス」と言います。これは「試練」と同時に「誘惑」という意味でもあります。ある人は「試練は神が信仰者を鍛錬し、成長させ、新しい命を約束された者にふさわしくしていく、神の創造的業である」と言います。他方「誘惑は、悪意を持った者(サタン)が信仰者を神から引き離そうとし、罪へと近づけ、滅びへと誘うものである」と言います。私たち人間は、生きている間に、困難な出来事、つらい出来事、悲しい出来事に遭遇します。それらを避けることはできません。しかし、それらの出来事を、悪意を持った他者の仕業と考えたり、運が悪かったとしか考えないならば、それは私たちを罪と滅びに近づけます。私たちを神さまから引き離してしまします。反対に、たとえ困難な出来事、つらい出来事、悲しい出来事に出会っても、そこに神さまの隠れた御心を尋ね求めていく時、それは試練として私たちを鍛え、成長させ、新しい命を約束された者にふさわしい者としてくださるのです。
 もちろんそれは、容易なことではありませんし、長い時間を必要とすることです。隠された御心は簡単には分かりません。私たちは、荒れ野で40日間主イエスがサタンの試みを受けた時、聖書の御言葉によってその試みを退けたことを思い起こします。また、ゲッセマネの園で十字架の死という苦い杯を前にした時、主イエスが血の滴るような汗を流して、祈られたことを思い起こします。神の子イエス・キリストでさえ、聖書の御言葉と切なる祈りによって、試練に耐えられたのですから、私たちの場合はなおさらです。御言葉に養われ、祈りによって力づけられることによって、初めて試練を受け留めていくことができるのです。
 
 さて、試練に出会うと、どうしてそれが喜びにつながるのでしょう。ヤコブの手紙はそれについてこう言うのです。3~4節です。「信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」。ヤコブの手紙は、試練があなたがたの中に忍耐を生み出し、あなたがたを完全で申し分のない人にするというのです。使徒パウロはローマの信徒への手紙5章4節で「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」と言っています。パウロが「練達」と言っていることを、ヤコブの手紙は「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になる」と、言い表しているのでしょう。ただここで言われているのは、神さまのような完全さを身に着けるということではありません。「完全な」という言葉は、「ある部分で充実し、完全である」という意味です。これは神に供えられる際にふさわしい犠牲の動物や、神に奉仕する上で適格な祭司に使われる言葉です。また「欠けたところのない」というのも、定められた目標や目的に向かって完全であるという意味です。学者が学問の入門段階を通過し、熟達した境地に達した状態や、ある人が肉体的に未成熟な年代を過ぎて、完全に成長している状態を、この言葉は表しています。つまりキリスト者が、神の前に信仰者として期待されている状態に達している、信仰者として成熟した段階に達していることが、この言葉によって表現されているのです。完全無欠の人になるということでは、決してないのです。いずれにしても、試練は忍耐を生み出し、その忍耐が私たち信仰者を成熟した状態へと至らせてくれる。だからこそ、「試練と出会うことは喜びである」と言われているのです。
 ある注解者は、キリスト者はスポーツマンのようなものだと言っています。コーチが練習量を多くすれば多くするほど、その過程は強化され、スポーツマンは喜びを覚える。というのも、勝利を得る厳しい道に、自分が次第にふさわしい者となっていくのが分かるから、と言うのです。自分の力の成長が、多くの練習を重ねることによって実感できる。それが自信になっていくということでしょう。
 それと同様のことが信仰者にも言えます。人生を見舞う色々な試練は、信仰者に忍耐を求めます。忍耐はスポーツマンに課せられた厳しい練習のように、決して楽なものではなく、つらく苦しいものです。しかし、その忍耐を、聖書の御言葉に養われ、祈りから得る力によって担い続けていくとき、私たちの忍耐力は、大きくなっていきます。忍耐する実力が着いてきます。それによって、この後どんな試練が襲ってきても、それを恐れないで、正面から受け留めることができる。信仰の実力ともいうべきものが備わっていくのです。嵐の時、船は襲い来る大波に船の舳先を向けて進んで行く時、大波の中を突き進んで行くことができます。反対に大波を避けようとして舵を切ってしまうと、大波は船の脇腹に襲い掛かり、船を転覆させてしまいます。それと同様、人生の大波を前にしても、それから逃げない姿勢が、忍耐によって培われていくのです。
 また、この忍耐する信仰の実力は、他の信仰の兄弟姉妹の助けにもなります。成熟した大人は、社会の中で他者と関わりながら、他者と共に生きていきます。それと同様に、信仰に生きるということの中には、必ず他者が含まれるのです。自分のことだけでなくて、試練の中にある他者のために思いを寄せる、その人のために祈り、共に重荷を負い合う者とされていきます。他者を視野に入れることのできない信仰はあり得ません。私たちが経験する忍耐は、そういう信仰者を造り上げていくのです。
避けることのできない試練を、臆することなく、人のせいにするのでもなく、自分に与えられたものとして、引き受けていく。同じ主を信じる兄弟姉妹が試練に見舞われた時、先に試練を受けた者として深く共感し、兄弟姉妹のために祈る、進んでその重荷の一端を担っていこうとする。そのような成熟した信仰者を、ヤコブの手紙は「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人」と呼んでいるのです。
 書物からの受け売りですが、ある訪問者が、銀細工人がるつぼで銀を精錬するのを見ていたそうです。銀細工人はるつぼの下に火をつけ、火がだんだん強くなっていきます。その間ずっと、銀細工人はそのるつぼの中を入念にのぞき込んでいるのでした。不思議に思って訪問者は尋ねました。「なぜ、そんなにじっと見ているのですか。何を探しているのですか。」「私は私の顔を探しているのです。」これが答えでした。「銀の中に私自身の顔が映るようになると、私は仕事をやめます。それが完成のしるしだからです。」銀細工人は、不純な物を取り除いて銀を完全なものにするために、銀を火にかけました。そして、るつぼの中をのぞきこみ、自分の顔がはっきり映るようになった時、そこに完成のしるしを見たのです。試練というのは、私たちの上に神の怒りを下す、刑罰のようなものではありません。試練は私たちに、神さまの愛を注いでくれます。神さまは苦悩や試練や悲しみを通して、私たちの中に神さまの御姿を探し求めておられます。それは神の子のしるしであり、そこに神さまは完成のしるしをご覧になるのです。「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。」この聖句に込められた神さまの深い御心を、私たちは聞き逃さないようにしたいと思います。お祈りをいたします。(2020年9月6日)
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