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礼拝説教

8月30日の礼拝説教
2020-09-07
コロサイの信徒への手紙4章2~6節      2020年8月30日(日)
「キリストの秘められた計画」         藤田浩喜
 信仰者にとって「お祈り」は大切なも のです。自分や自分の家族のために、教会につながる兄弟姉妹のために、皆さんも祈られていることでしょう。親しい人たちの今日の一日が守られるように、病気や困難の中にある人たちが平安を得られるように、大きな挑戦をする人がそれを達成できるように祈ります。そして何よりも、家族や親しい友達に福音が伝わり、主イエスを信じる信仰者になってほしいと祈るのです。親しい人たちが信仰に導かれるように祈るのです。
 しかし、私たちはそのように祈りつつも、自分の「お祈り」にあまり自信を持つことができません。自分の「お祈り」が成長しているように感じられません。
「一応お祈りしてはいるけれども、こんなお祈りでいいのだろうか」と戸惑いながら、日々を過ごしているのではないでしょうか。それは正直な私たちの思いです。そんな私たちに対して、今日のコロサイの信徒への手紙4章2~6節は、祈りの勧めをしてくれています。お祈りをする場合の要点を教えてくれるのです。
 
 まず、2節でこう語ります。「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい」。原文では「ひたすら祈りなさい」が真っ先にきています。「たえず祈り続けなさい」、「祈りに専念しなさい」と言われるのです。ここで著者は「祈りにうみ疲れることと戦っている」のです。
苦しい時、必要な時だけ祈る人がいます。「苦しい時の神頼み」とはよく言われることです。また、時々申し訳程度に祈る人もいるでしょう。しかし、もし友達が、あなたのところへ困った時だけ来たら、どうでしょう。あなたは「何だあいつは、ひとを利用する時だけ来る」と言わないでしょうか。もちろん神さまは恵み深い方ですから、人間のようにぶつぶつは言わないでしょう。しかし、苦しい時にだけ頼られる神さまは、本当の神ではないのです。それは人間が考え出した、自分流の神にすぎないのです。
また、「目を覚まして…祈りなさい」と言われます。まさか眠って夢の中で祈る人はないでしょう。「目を覚まして」とは、真に心の目を覚まし、心を新たにして、本腰を入れて祈ることです。祈りはよく食事や呼吸にたとえられます。それらが日々の生活に欠くことができないように、祈りも信仰生活にとって必要欠くべからざるものです。しかし、食事や呼吸は特に意識しなくともできるものです。けれども祈りは、自然のまま放っておいてできるものではありません。祈りたくない自分と真剣に戦わなくては、「目を覚まして」祈り続けることはできません。自分に打ち勝つ時にのみ、祈りは生き生きと持続するのです。そのような意味で、朝でも夜でも毎日決まった時間に家庭礼拝を行い、祈りを捧げることは
私たちの祈りの生活を大いに強めてくれると思います。
 
続く3~4節を読んでみましょう。「同時にわたしたちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださり、わたしたちがキリストの秘められた計画を語ることができるように。このために、わたしは牢につながれています。わたしがしかるべく語って、この計画を明らかにできるように祈ってください。」伝道者である著者は、コロサイの信徒たちに祈るよう勧めるだけでなく、「この私のためにも祈ってください」と懇願するのです。ある注解者はここに触れて、
「『自分のためにも祈ってください』と求めることのできる人は、すでに目覚めた祈りの人です」と言っていますが、深くうなづかされます。「私のためにも祈ってください」と言える人は、自分が小さな者であり、自分一人では何ほどのこともできないことを知っています。しかし、この人は祈りの持つ力を深く信じており、多くの人が祈りを合わせることによって、神さまの御業が確実に進展していくことを信じているのです。
 著者が祈ってほしいと願っているのは、どんなことでしょう?「キリストの秘められた計画を語ることができるように」と言われています。「この計画を明らかにできるように」と、繰り返されています。「キリストの秘められた計画」は、「キリストの秘儀」というのがもとの言葉です。それは、教理的に言うとすれば、「キリストのうちに赦しと甦りと命がある、彼はすべてのものの主である」ということでしょう。しかし、聞いた人がその福音を受け入れ、心から「アアメン、その通りです」と告白できることまでを含んでいるのです。
 「秘儀」というのは、「隠れた面」と「現れた面」があります。「現れた面」は聖書の言葉として私たちに与えられ、それは伝えることができます。しかし、教会は聖書学校ではないのです。教会は大学とは違います。そこには「キリストの秘儀」として、「隠れた面」があります。それは隠れていて、伝えることはできません。でも伝えることができないというのは、決して伝わらないという意味ではありません。人間の知恵や力では伝わらないということです。聖霊をいただかなくてはなりません。だからこそ、このキリストの秘儀が明らかになるために、自分が祈るだけでなく、他の人たちにも祈ってもらわなくてはならないのです。
 今、水曜日の祈祷会では、テサロニケの信徒への手紙一を、共に読んでいます。先週の水曜は第2章を読み、八尋長老から奨励を受けました。その時八尋長老が取り上げられたのは、13節の次のような言葉でした。「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。」そして長老は、自分が高校生の時、人の言葉としてでなく、神の言葉として受け入れた御言葉があった。それはマルコによる福音書2章17節だと言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。この御言葉を神からの真の言葉と受け入れて、教会に通うようになり、キリスト者となった。しかし、この御言葉は入信した時だけではない。今もこの御言葉が、自分の中で生きて働いている。大変な時に自分を励まし支えてくれる御言葉です、と言われたのでした。これもまた、御言葉と出会った人にキリストの秘儀が明らかにされたということでしょう。こうしたことを可能にするのが、聖霊の働きなのです。私たちは「キリストの秘められた計画」が、一人でも多くの人たちに明らかにされるよう、祈りを合わせることができるのです。
 
 最後に5~6節です。「時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい。いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。」ここで著者が語っていることも、他者のために祈りつつ行うべきことなのです。先ほど申し上げた「キリストの秘儀」が御言葉を聞いた人に明らかにされるために、私たちにはできることがあるのです。
 「時をよく用いなさい」と言われています。これは単に時間を上手に使うという意味ではありません。「用いなさい」には、「買い戻す」とか「身代金を出して解放する」という意味があります。それは「今の時を神の御業を実行する機会として買い戻す」という意味なのです。具体的に言うなら、私たちは日常生活の中で色んな人たちと時を過ごしますが、その時を「キリストの秘儀」を伝えることができるよう、大切に使いなさいということです。
 もちろんそれは、自分の家族や友人に会ったら、いつも聖書の御言葉や福音を語りなさい。それ以外のことを語ってはいけない、ということではありません。
そうではなく、イエス・キリストが私たちに向けてくださっている愛のまなざしをもって、自分の家族や友人たちのことを見守り、配慮していくこと。その人のために、その人を覚えて祈り続けていくこと。そのような中で、その人が今必要としている言葉を示され、愛をもって語りかけていくことだと思います。
コロサイ人への手紙4章7節以下をご覧になると、そこには著者が主にある交わりを結んだたくさんの人たちの名が記されています。その一人一人に挨拶を送っていますが、その一人一人を紹介する温かい言葉が添えられています。ここには、一人一人を大切にする細やかな愛情が表われているのではないでしょうか。この著者のように、一人一人を大切にする気持ちを、イエス・キリストの愛のまなざしに励まされて、持ち続けていく。その時に、わたしたちは「塩で味付けられた快い言葉」で語りかけることができるのです。それは、人によって違います。同じ人であったとしても、状況によって違うでしょう。しかし、日頃からその人を覚えて祈り、見守っているからこそ、「一人一人にどう答えるべきかが分かる」のです。もちろんうまくいかない時も、あるに違いません。歓迎されないこともあるでしょう。しかし、その言葉には祈りが込められ、聖霊の働きが伴います。私たちの取り次ぐ言葉が、いつか大事な人たちに、キリストの秘儀、キリストの秘められた計画を明らかにしてくれることを信じて、祈り続け、語り続けていきたいものです。
 
 今はコロナ禍の中にあって、面と向かって話の出来る機会は少なくなっています。しかし、私たちの捧げる祈りは、どんなに場所が離れていても妨げられることはありません。また、インターネットの発達によって、地球の裏側にいる家族とも、言葉を交わすことができます。神は、コロナ禍に見舞われている私たちと教会に対して、そうした状況にあっても、「御言葉のために門を開いてくだ」さっているのです。そのことを、感謝をもって覚えたいと思います。お祈りをいたしましょう。(2020年8月30)
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