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礼拝説教

8月23日の説教
2020-08-31
創世記43章26~34節       2020年8月23日(日)
 
 「備えられた食卓」         藤田浩喜
 
 私たちが切羽詰まって身動きが取れなくなった時、私たちはどうするでしょうか。特に自分の思いが強すぎて、自分で自分をがんじがらめにして、一歩も進めなくなってしまう時があります。そんな時に大事なのは、ふと目を天に向けて神さまを思い出すことです。今までの人生において、自分一人の力で生きて来られたのではなく、神さまの支えと導きを頂いて、色々な危機を乗り越えてきたことを思い出すのです。そうすると「ふっと」肩の力が抜けて、軽くなります。自分をがんじがらめにしていた状態から、不思議にも抜け出すことができます。そして、神さまにこれからの自分を委ねることができるのです。ここに、神さまを信じて生きているキリスト者のさいわいがあると思います。
 今日の創世記43章に登場する族長ヤコブがそうでした。エジプトから9人の息子たちが一族を養うための穀物を持ち帰ってくれました。しかし飢饉は収まる様子がありません。一族が飢え死にしないためには、前回と同じようにエジプトに穀物を調達しに行かなくてはなりません。しかし食糧を管理するエジプトの総理大臣(実はヨセフですが)から、今度エジプトに来るときは末の弟ベニヤミンを連れて来ることを命じられています。ベニヤミンを連れていかなければ、エジプトに行くことはできません。
 しかし、父ヤコブは頑としてそれを許さないのです。42章で長男のルベンが必死に説得を試みましたがダメでした。そして、今日の43章でも四男のユダが再びそのことを願っても、はねつけるばかりでした。しかも「末の弟がいるということを、どうしてエジプトの総理大臣に知らせたのか」と、言っても仕方のないことを持ち出すのです。それでも、ユダはあきらめませんでした。「ベニヤミンを連れて行けるなら、すぐに出発します。そうすれば、一族の者たち、子どもたちも死なずに生き延びることができます」と説得します。そして、「ベニヤミンのことはわたしが保証します。その責任をわたしがすべて負います」と、言葉を重ねます。ユダの説得だけでなく、ルベンの説得も思い出されたことでしょう。日に日に食糧が枯渇し、ひもじさを増していく状況も、ヤコブの目に入っていたに違いありません。とにかく、ユダの説得が最後の一押しとなって、ヤコブは気持ちを一転させたのです。
 ヤコブは気持ちを一転して、次のように言うのです。11~14節です。「すると、父イスラエル(ヤコブのことです)は息子たちに言った。『どうしてもそうしなければならないのなら、こうしなさい。この土地の名産の品を袋に入れて、その人への贈物として持って行くのだ。乳香や蜜を少し、樹脂と没薬、ピスタチオやアーモンドの実。それから、銀を二倍用意して行きなさい。袋の口に戻されていた銀も持って行ってお返しするのだ。たぶん何かの間違いだったのだろうから。では、弟を連れて、早速その人のところへ戻りなさい。どうか、全能の神がその人の前でお前たちに憐れみを施し、もう一人の兄弟と、このベニヤミンを返してくださいますように。このわたしがどうしても子供を失わねばならないのなら、失ってもよい』」。ここのヤコブは、自分の思いにがんじがらめになっている以前の彼とは違い、とても柔軟です。今、自分たちにできる最善のことは何であるか知っています。的確かつ迅速に行動しています。末っ子ベニヤミンに最愛の妻の姿を重ね、それを離すまいとしがみついている以前のヤコブとは、別人のようです。そのような180度の転換を、何が彼にもたらしたのでしょう。それは「主なる神さまにお委ねしよう。そこに自分たちの生きる活路がある」と、自分を明け渡せたことではないでしょうか。
彼はこれまでの激動の生涯の中で、何度も愚かな失敗し、苦しい目にも遭ってきました。母と結託し父をだまして、長子の特権と祝福を奪い取りましたが、そのせいで故郷にいられなくなりました。兄の復讐を恐れたのです。その後叔父ラバンのもとに身を寄せましたが、一枚も二枚も上手の叔父にいいようあしらわれてしまします。彼は最愛の妻ラケルを得るために、14年間もラバンのもとでこき使われてしまうのです。最後に苦労の末、財と一族を成したヤコブは、故郷に帰ろうとします。しかし、兄のエサウはまだ復讐の火をたぎらせているかも知れません。ヤコブは自分が行く前にたくさんの贈り物をエサウに送らせますが、気が気ではありません。ヨルダン川を渡る決心がつきません。しかし、その夜主なる神が現れられ、恐れるヤコブと共におられることを約束し、彼にヨルダン川を渡る勇気を与えてくださいました。それによって、兄エサウとの感動的な和解を果たすことができたのです。ヤコブは年老いてはいましたが、自分の人生にはいつも主なる神が共にいまし、決定的な場面で彼を助け導いてくださったことを思い出すことができました。そのことに立ち帰ることができたゆえに、彼は自分自身をがんじがらめにしていたものから、自由になることができたのです。
私たち人間は、長く生きるにつれて、色んなものを身にまとっていきます。経験や知恵、自分の生きるスタイル、信念や信条のようなものが備わっていきます。それらは生きる上で頼りになるものではありますが、絶対ではありません。それらのものを総動員しても、どうにもできない切羽詰まった状態に陥ることも稀ではないのです。しかし、そのような時にこそ上を見上げましょう!八方塞がりであっても、天に向かって道が開かれています。そのような時にこそ、ヤコブがそうであったように、自分の状況を神さまに委ね、神さまの憐れみと恵みを祈りたいと思います。そして、そのようにお委ねできてこそ、私たちは落ち着いて、今の自分に何ができるのかが見えるようになってくるのです。
さて、末の子ベニヤミンを連れて、兄弟たちはエジプトのヨセフのもとに行きます。ベニヤミンが一緒なのを見て、ヨセフは信頼する執事に、彼らをヨセフの邸宅に連れて行くように命じます。そして彼らと昼の食事をするので、その用意をするように命じるのです。兄弟たちはヨセフの邸宅にやって来ましたが、気が気ではありません。前回穀物を持って帰った時、穀物袋に戻されていた銀のことを問題にされ、責められるのではないか。ひょっとすると、家に中に入るや否や捕まえられ、乗ってきたロバともども奴隷にされてしまうのではないか。彼らは疑心暗鬼に捉われ、ひどく恐れていたのです。
しかし、彼らを待っていたのは豊かな昼食の席でした。ヨセフは母親を同じくするベニヤミンの顔を見て、懐かしさで心が熱くなり、涙がこぼれそうになった、とあります。そのような再会の場面で、久しぶりに兄弟と一緒に食事をしたかったのかもしれません。もちろん、目の前にいるエジプトの総理大臣がヨセフであることは、未だ明らかにはされていません。秘められたままです。また、ヨセフと兄弟たちは、別のテーブルで食事をしたことが分かります。というのも、当時のエジプト人の習慣では、エジプト人はヘブライ人と食卓を共にしなかったからです。それはエジプト人の厭うことであったのです。ここでの食事は、そのような制限があり、ある種の距離感がありました。100%のものではなかったでしょう。しかし、ここには明るい雰囲気がありました。末っ子のベニヤミンには、他の兄弟の5倍の料理が配られたとあります。ヨセフの気持ちが溢れ過ぎていて、ユーモラスでさえあります。また、今日の最後のところには、「一同はぶどう酒を飲み、ヨセフと共に酒宴を楽しんだ」とあります。和やかな明るい雰囲気が伝わってきます。兄弟たちが喜び祝う、本当の宴の様子が思い浮かびます。彼らが共に食事をするということの中に、ヨセフと兄弟たちの行く末が、明るい方向へと向かっていることが感じ取られるのです。
牢から解放されたシメオンも含め、彼らはヤコブの12人の子どもたちです。イスラエルの12部族を表しています。新約においてこの12部族を継承したのが、主イエスの12弟子でした。12弟子はご承知のように、最後の晩餐の時、主イエスを囲んで食事をし、主はパンと杯をお配りになりました。これを後の教会が受け継ぎ、私たちの守っている聖餐式となったのです。主イエスはこれを12弟子にお配りになった時、こう言われました。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」(マルコ14:24~25)。これは、主ご自身が語られたことです。主は弟子たちのもとから離れられます。しかし、主イエスは神の国において、このように食卓を囲む日が必ずやって来ると、言われているのです。私たちが守っている聖餐式は、2千年前の主の晩餐を想起すると同時に、神の国で主イエスと顔と顔を合わせてお会いする御国の祝宴を先取りしたものでもあるのです。確かに地上の聖餐式には制限があり、御国における祝宴と同じものではないでしょう。コロナ禍にあって聖餐式を守れないでいる今は、なおさらそのように感じます。しかし、主が残して下さった聖餐式は、地上の事柄には留まりません。この地上の食事は、それを守る度に天上での麗しい祝宴を指し示しています。将来私たちが主イエスと顔と顔を合わせて守る、喜びに満ちた御国での祝宴を、予め告げ知らせているのです。この喜びに満ちた御国の祝宴の前味である聖餐式を、一日も早く守れる日が来てほしいと思います。そのためにも、皆さんとご一緒に祈りを合わせていきたいと思います。(2020年8月23日)
 
 
 
 
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