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礼拝説教

8月9日の説教
2020-08-24
ヘブライ人への手紙13章20~25節       2020年8月9日(日)
「福音の余韻」            藤田浩喜
 
 今日は8月9日で、75年前に長崎に原子爆弾が投下された日です。その三日前の8月6日には、広島に原子爆弾が投下されました。敗戦後75年が経ち、原爆を経験した方たちの平均年齢は83歳を超え、その実体験を語る方の人数がどんどん少なくなっています。そのため、この悲惨な経験を語り継いでいく新しい世代の人々が必要とされている。今年のテレビや新聞では、そういう声がよく聞かれました。これは後の世代の大切な責任ですが、どのようにしたら語り継いでいけるのでしょう? 戦争の悲惨さや平和のありがたさを、どうしたら後の世代に伝えていけるのでしょうか。わたしは、そのために「歴史をひもとく」ということと「同時代の世界に目を向ける」ということが、必要だと思うのです。
 「歴史をひもとく」というのは、75年前の日本で何があったのか、広島、長崎、沖縄を初め、私たちの国でどんなことがあったのかを、歴史から学ぶことです。今は文書資料だけでなく、映像資料もたくさん蓄積されています。関心を持てばいくらでも、見たり読んだりすることができます。過去に起こったことは、多少形は違っても繰り返されてきたというのが、歴史の教訓です。同じ過ちに陥らないためにも、歴史をひもとく姿勢が求められているのではないでしょうか。
あるキリスト教雑誌を読んでいましたら、1945年7月に千葉市を襲った七夕空襲のことが記されていました。その空襲によって、千葉本町教会は隣の病院や近隣の建物は焼失しましたが、奇跡的に教会は無事だったそうです。しかしそのために、近所から「あのうちはスパイだ」と風評が立つこともあったというのです。そんな器用な爆撃などできっこないのは分かりそうなものですが、戦時中という異常な状況下では、そんな理不尽なことも容易に起きてしまうのです。
「同時代の世界に目を向ける」というのは、たとえば現在のシリアの状況に目を向けてみることです。シリアはご承知のように内戦が起こり、670万人とも言われる難民が国内外に逃れています。激しい戦闘で家族を亡くしたり、家や仕事を失った人々が、命からがら外国にも逃れています。しかし例えば西の隣国レバノン(数日前信じられないような爆発が起こった国ですが)、そのレバノンは難民条約を批准していないので、シリアからの難民を法的に保護する義務がありません。ユニセフなどの援助はあるものの、シリアの難民は有料で土地を借り、そこにユニセフから提供されたテントを建てて雨露をしのいでいます。レバノンもそんなに豊かな国ではないので、生活に密着した仕事は、レバノンの人たちと取り合いです。職を奪われたという反感も起こります。そこに今年になってからの、新型コロナウィルスの感染拡大です。シリアの難民はますます仕事の機会がなくなります。借金が増え、生活が苦しくなるばかりです。そうした状況の中で、已むに已まれず家族のために体を売る女性、自分の臓器を売る人も出てきています。子どもたちは教育を受ける機会を奪われ、児童労働に追い立てられています。これがシリア内戦という現在の戦争がもたらした、紛れもない現実なのです。
4年前、ドイツのベルリンに行ったことがあります。メルケルさんの寛容な政策もあって、シリアの難民がドイツにも何万人と押し寄せてきました。ベルリンでバスを待っている時でしたか、一人の中年の女性に小銭をくれないかと、声をかけられたことがありました。その時は、何を言っているかはっきり分からなかったこともあって、断ってしましました。すると、その旅行の団長であった政治学者の先生が、こう言われたのです。「祖国に内戦が起こって、住む場所を失った人たちがどんなに惨めな思いをするか。これが国を失うということの現実なんですよ。」それを聞いた時、戦争によって国が国の体をなさなくなってしまうことの惨めさを、身に染みて実感したのでした。
今まで述べてきたように、先の戦争から75年経った私たちでも、「歴史をひもとく」ことによって、「同時代の世界に目を向ける」ことによって、戦争の悲惨さや、当たり前のように思っている平和の大切さを、学び取ることができます。またある平和学者は、言論の自由が保障されている国、正義や平等について敏感な国、人権意識の高い国には、戦争が起こりにくく、戦争を抑止する力がある、と語っています。現在の日本では、そのいずれもが後退しつつあるように思えますが、こうした後退を身近な場面で食い止めること、その状況を少しでも反転させることによって、平和に貢献していくことができるのではないでしょうか。
 さて、今日はヘブライ人への手紙の最後の部分を読んでいただきました。その最初の20~21節は「祝福」の言葉です。手紙の筆者は次のように祈るのです。「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中なら引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように。アアメン。」
 この最後の「祝福」は、ヘブライ人への手紙がこれまで語ってきたことのエッセンスが盛り込まれているように思います。父なる神さまが、御子イエス・キリストを通して、私たちとこの世界に何をしてくださったのかが、はっきり凝縮して語られているのです。ここで父なる神さまは、「平和の神」と呼ばれています。しかもギリシャ語原文では、「平和の神が」という主語が文章の最初に来ています。ある説教者は「平和」を「救い」と言い換えています。平和の神である神さまは御子イエス・キリストによって、「救い」を与えられたと言うのです。
 わたしは思うのですが、国と国の間に、ある社会層と別の社会層の間に、そして個人と個人の間に「平和」が失われているのはなぜでしょう? それは一つには、人間が永遠なるお方を忘れて、そのお方と繋がっていないということ。もう一つは、人間が死を無意識に恐れ、死を忘れようとして現世主義に陥っているからではないでしょうか。この二つは密接に関係しています。私たち人間は、永遠なる神さまを信じ、この方に繋がっていないと、死への恐怖や現世主義・刹那主義から逃れることはできないのです。そのような自分を、人間はどうすることもできず、癒しがたい不安の中に置かれています。明日をもしれぬ不安の中で、人間は安心することができません。そのため、遥か遠くにしか見えない平和のために働くこと、地道な努力を積み上げていくことができないのです。
 しかし、平和の神はその人間の根本に巣くう不安や恐れをぬぐうために、全力を尽くして人間の罪の現実に介入されました。神の御許におられた御子を、人間の苦難と死のただ中に遣わされ、御子の血によって人間の罪を完全に贖われました。イエス・キリストは旧約聖書の大祭司を遥かに凌駕する大祭司でした。昔の大祭司は小羊の犠牲を神に捧げることしかできませんでした。しかしイエス・キリストは、御自身を完全な犠牲として捧げることによって、人間のすべての罪を償ってくださったのです。もはや父なる神さまへの道を妨げるものはなくなり、人は自由に神さまのもとに近づくことができるのです。また御子イエス・キリストは旧約のモーセを遥かに凌ぐ羊飼いでした。モーセもかつては舅エテロのもとで羊飼いであり、エジプトで奴隷状態になっていたイスラエルの民を、羊飼いのように約束の地カナンへと導いていきました。しかし御子イエス・キリストはモーセを遥かに凌ぐ大牧者として、信じる民を死から命へと導いてくださいました。古い契約を凌駕する永遠の新しい契約へと、信じる者たちを導き入れてくださったのです。神さまはこのお方を、死者の中から引き上げてくださり、再び神さまの右の座にお着けになりました。ヘブライ人への手紙の中で、初めて御子の復活と高挙に触れている箇所です。しかし神さまは、御子だけを死者の中から引き上げ、御許に来らせたのではありません。主を信じるすべての信仰者も一緒に、死者の中から引き上げてくださったのです。神さまは平和の神として、この世を超える救いを私たちにもたらしてくださいました。神さまの全力を傾けた救いによって、今や私たちは、根源的な死の恐れと不安から解き放たれています。主によって新しく造り変えられた人間として立っているのです。主イエスは山上の説教で「平和を実現する人々は幸いである。その人は神の子たちと呼ばれる」(マタイ5:11)と言われました。そして他ならぬ御子イエス・キリスト御自身が、平和を実現するために召されている私たちの先頭に立って下さっているのです。
 私たちはいと小さな者ですが、神は21節にあるように、「御心を行うために良いものを備えてくださっています」。御子イエス・キリストが、そのために必要な準備を整えて下さいました。私たちの歩みは拙いものですけれども、神の与えて下さったまことの「平和」を世に語り継ぐ者として歩んで参りたいと思います。(2020年8月9日)
 
 
 
 
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