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礼拝説教

7月26日の礼拝説教
2020-08-03
ヘブライ人への手紙13章7~16節(Ⅱ)   2020年7月26日(日)
「苦難の主イエスのみもとへ」
 将来を嘱望された三浦春馬という若手の俳優さんが、最近自らの命を断ちました。その原因ははっきり分かっていませんが、その原因の一つは、彼がツイッターで発言したことに対する、ひどい誹謗中傷ではなかったかと言われています。そのツイッターは、映画で共演した男性の俳優が、妻子がいるにもかかわらず3年間も不倫をしていた。その行為に対して当然のごとく、激しいバッシングが浴びせかけられました。その俳優は日本中を敵に回したようになっていました。そんな時三浦さんは、ツイッターでこのように発言したのです。「どの業界、職種でも、叩くだけ叩き、本人たちの気力を奪っていく。みんなが間違いを犯さない訳じゃないと思う。…国力を高めるために、少しだけ戒めるために、憤りだけじゃなく、立ち直る言葉を国民全員で紡ぎ出せないのか…」。奥さんを裏切る不倫が悪いことは言うまでもありません。しかし当事者でもない人々が、SNSを使って寄ってたかって社会的制裁を加えてしまう。自分を安全地帯において、名前も明かさずに一方的に攻撃を加える。それによって二度と立ち上がれないようにしてしまう。そういうあり方ではなく、本人に十分な反省を迫りつつも、ダメにしてしまうのではなく、立ち上がる可能性を残した言葉を紡ぎ出せないものか。三浦さんはそう訴えたかったのだと思います。しかし、その真意は伝わることはなく、人でなしの不倫男を擁護していると誤解され、今度は三浦さん自身が激しい誹謗中傷にさらされることになったのでした。自分自身を安全地帯において、名前も明かさずに、過ちを犯した人をボコボコにして社会的制裁を加える。これはまさにネット時代の歪んだ正義、現代の魔女狩りのような出来事だと思います。
 さて、今日読んでいただいたヘブライ人への手紙13章13節で、著者は次のように言っています。「だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか。」「宿営の外に出て、主イエスのもとに赴こう」と呼びかけるのです。まず「宿営」というのは、エルサレムの町を城壁で囲んだ、城壁の内側のエリアということです。古代においては、多くの町が外敵から身を守るために城壁で囲まれていました。門を通ってしか出入りすることはできませんでした。町の中は城壁で外敵から守られていた、言わば安全地帯だったのです。町の人々は宿営の中では安んじて生活することができました。そして、亡くなった人は町の門を通って外に出されました。重い皮膚病などに罹った人、罪を犯して裁かれた人も、宿営の外に出なければなりませんでした。一方、宿営の中にはエルサレム神殿がありました。神さまを礼拝したり、犠牲を捧げたりするために、人々は神殿を訪れたのでした。
 その安全地帯とも言うべき宿営を出なさいと、著者はヘブライ人教会の人々に言います。これは文字通り宿営の外に住みなさいということではありません。比喩的に言われています。つまりヘブライ人教会の人たちに、「安全地帯から出なさい」、「安全な場所に身を置くだけではいけません」と呼びかけるのです。これまでも何度か申しましたように、ヘブライ人の教会にはキリスト教迫害の脅威が迫っていました。社会から警戒の目で見られていました。そこでキリスト者たちが表立って伝道をしたり、慈善活動をしたら、人々から反発を受けてしまいます。何を言われるか分かりません。そこでヘブライ人教会の人々は、息を潜めて信仰生活を守っていたようなのです。社会に向かって宣教するのではなく、前回お話したように教会の中中心の信仰生活を守っていました。旧約以来の食べ物についての掟をどれだけ忠実に守れるかということに、関心が向けられていました。あるいはヘレニズムの宗教の影響を受けて、神さまに捧げた肉や穀物を食べることで、神さまからの霊的な力を受けようと考えていました。そのような内向きの信仰生活に傾いていたようなのです。
 しかし、手紙の著者は「そのような安全地帯に身を置くのではなく、宿営の外に出なさい」と言います。宿営の外はご承知の通り、イエス・キリストが十字架に掛けられたゴルゴダの刑場がある場所です。今日の10節で著者は、「わたしたちには一つの祭壇があります」と言っています。旧約の祭壇は、宿営の中にありました。その祭壇に犠牲の動物の血が注がれて、罪の贖いがなされました。民はその血によって罪を赦されました。しかし、新約の祭壇は、イエス・キリストが磔(はりつけ)にされた十字架です。主イエスが私たち人間の身代わりとなって十字架で血を流し、死を遂げられることによって、私たちの罪は赦されました。神さまと人間の間に横たわっていた罪が取り除かれ、完全に救われました。キリスト者にとっての祭壇は、宿営の中にあるのではなく、宿営の外にあります。キリストが磔にされた十字架こそが、私たちの真の祭壇です。だからこそ、安全地帯である宿営の外に出て、主イエスのみもとに赴こうと呼びかけられているのです。
 その宿営の外にある祭壇に来て、私たちは何をするというのでしょう。祭壇は16節にあるように、「いけにえ」をお捧げするところです。いけにえをささげることで、神さまが喜んでくださいます。でも、私たちは主イエスが捧げたものと同じものを捧げる必要はありません。主イエスは私たちが罪を赦され、救われるために完全ないけにえとなって、ご自身を捧げてくださったからです。そうではなく、私たちキリスト者が捧げるいけにえがあります。それが15~16節に記されているのです。読んでみましょう。「だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです。」
第一のいけにえとして、主イエスを通して賛美と感謝を、神さまに捧げることができます。昔の人の中にも、感謝の捧げ物が罪の赦しの捧げ物より、神に喜ばれると考えている人がいました。なぜなら、罪のための捧げ物は神からの罪の赦しという報いを得ようとしますが、感謝の捧げ物は、無条件に感謝の心を神さまに捧げるからです。感謝の捧げ物は、すべての人が捧げることができますし、何よりも神さまが喜んでくださる捧げ物なのです。 第二のいけにえとして私たちは、御名をたたえる唇の実を捧げることができます。これは、御子を通して示された救いの御業をたたえることであり、キリストへの信仰を喜んで人の前で告白することです。「絶えず」と言われています。キリスト者は、自分が誰のものであり、誰に仕えているかを、恥じることなく人々の前に示す生活を、神に捧げなくてはなりません。イエス・キリストを「絶えず」告白するという捧げ物をすることができるのです。 そして第三に私たちは、隣人に対する善い行いと隣人に分け与えることを、いけにえとすることができます。主ご自身も「…わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25:40)と言われています。神さまは、兄弟姉妹や隣人に対してなされる「援助」という捧げ物を、わが事として喜んでくださるのです。 ここで示されている三つの捧げ物は、自分の外に向かってなされるべきことです。教会の中や家庭生活から一歩踏み出して、進み出なくてはなりません。安全な所に身を置いたままではできません。人々の眼差しの前に、自分をさらす勇気がなくてはできません。自信の無さやためらいの気持ちも、起こってくるでしょう。しかしこのような捧げ物こそが、神に捧げられる「いけにえ」です。すなわち「いのちある供え物」なのです。神さまはどんなに小さくても、たとえ整っていなかったとしても、私たちが捧げるそのようないけにえを喜んでくださるのです。
 人はこの世に、自分の安全地帯を設けようといたします。それは昔の人々にとっては城壁に囲まれた「宿営」の中でありました。私たちキリスト者にとっては、地上の教会がそのような安全地帯になってしまうことがないでしょうか。そして、私たち一人一人も何らかの安全地帯を確保して、そこから出て来ないということがありはしないでしょうか。そうした安心の場は、確かに私たちに必要です。しかし、そのような地上の安全地帯は、永遠に存続するものではありません。今日の14節が言うように、「わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです。」私たちの目指す永遠の都は、地上にではなく天にあるのです。そして、イエス・キリストの御後に従い、主の開いてくださった道を進んで行く者は誰であっても、その都に到達することができるのです。(2020年7月26日)
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