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礼拝説教

7月19日礼拝説教
2020-07-27
7月19日(日)  
 説教題 「義によって助けられる神」」   藤田浩喜
 創世記42章29~38節         
 

 

 エジプトで7年の大飢饉が起きた時、ヤコブとその一族が住んでいたパレスチナもひどい飢饉に襲われていました。このままではみんな飢え死にしてしまう。そこで父ヤコブは息子たちに、穀物があると聞いているエジプトに行って、穀物を買うように言ったのでした。ヤコブの子どもたちはヨセフを除くと11人でしたが、父の考えで末っ子のベニヤミンだけが、父のもとに残されたのでした。

 エジプトでは、国の司政者となったヨセフが、国民に穀物を販売する監督をしていました。そこに10人の兄たちがやって来たのです。ヨセフは彼らが自分の兄だと一目見て気づきます。兄たちはヨセフだと知るよしもありません。そこでヨセフは素知らぬふりをして、厳しい口調で兄たちを問い詰めるのでした。「お前たちは回し者だ。この国の手薄な所を探りに来たにちがいない」(9節)。兄たちは恐れおののいて答えます。「いいえ、御主君様。僕どもは食糧を買いに来ただけでございます。わたしどもは皆、ある男の息子で、正直な人間でございます。僕どもは決して回し者などではありません」(1011節)。兄たちは、自分たちが怪しい者ではないことを必死に訴えます。しかし、ヨセフは信じようとしません。そして、兄たちが「年老いた父のもとにもう一人の弟がいます」と言ったのを逆手に取って、「お前たちの言うことを信じて欲しいなら、その証拠として末の弟を連れて来い」と、命じたのでした。そして、彼らを三日間牢獄に監禁した後、シメオン一人を人質として残し、他の9人に食糧の穀物を持たせて、父の待つパレスチナに帰したのでした。

 しかし、それにしてもヨセフはどうしてこんな行動に出たのでしょうか。13年前に自分をエジプトに売った兄たちに、復讐するためでしょうか。ヨセフの気持ちが、複雑であったことは間違いありません。兄たちの姿を見て、13年前のあの辛く悲しい場面が、まざまざと蘇って来たことでしょう。20節でルベンが言っているように、「ヨセフが我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうとしなかった」のです。とても兄たちと感激の対面というわけにはいきません。3日間、兄たちを牢獄に監禁してやろうと考えても、不思議はありません。その反面、ヨセフは兄たちに優しい一面も見せています。最初ヨセフは兄たちの一人を故郷に帰らせて、末の弟を連れて来るように命じました(16節)。ところが実際は、シメオン一人を残して他の兄たち全員を帰らせます。そして、帰る彼らの袋に穀物を満たし、道中の食糧を与えただけではありません。僕に命じて、彼らが払った穀物の代金を、彼らの袋に戻させたのです(25節)。

 こうしたことからも、ヨセフが兄たちに復讐するために、このような対応をしたとは考えられません。そうではなく、彼の行動の鍵が18節以下の言葉に示されているように思うのです。三日経ったとき、ヨセフは兄たちにこう言うのです。「こうすれば、お前たちの命を助けてやろう。わたしは神を畏れる者だ。お前たちが本当に正直な人間だというなら、兄弟のうち一人だけを牢獄に監禁するから、ほかの者は皆、飢えているお前たちの家族のために穀物を持って帰り、末の弟をここへ連れて来い。そうして、お前たちの言い分が確かめられたら、殺されはしない。」ここでヨセフは、自分を「神を畏れる者だ」と言い表します。これは真実であり、彼の生き方の根本をなすものでした。ですから、ヨセフは自分の感情ではなく、神の御旨としてこのことを行おうとしているのです。そしてヨセフは「お前たちが本当に正直な人間というなら」と言っています。兄たちはエジプトの司政者であるヨセフの前で、本当のことを言っています。兄たちが述べたことに間違いはありません。しかし兄たちは、本当に正直な人間として、神の前に恥じることのない人間として、これまで生きてきたでしょうか。13年前ヨセフの目に余る傲慢さと父の偏愛の故とは言え、彼らは肉親である弟を、エジプトの隊商に売り渡してしまいました。苦しみ助けを求めている弟を顧みようとはしませんでした。そして、弟は獣に襲われて死んでしまったと、父ヤコブに嘘を言って口裏を合わせました。彼らにとって弟のことは、心の重荷、良心の棘となって、彼らを苦しめてきたに違いありません。そのような彼らは、本当に正直な人間としてこれまで生きて来られたのでしょうか。また、これから生きて行けるのでしょうか。彼らが本当に正直な人間として生きて行くためには、避けて通れないことがあるはずです。それは自分たちが犯した罪と過ちを、真正面から見つめることです。その罪を心の底から悔いて、神さまの前に告白することです。そのように心からの悔い改めをすることで、人は本当に正直な人間として再出発していくことができます。心の重荷、良心の棘を取り除かれて、神さまに顔を上げて、新しく人生をやり直していくことができます。主なる神はヨセフを通して、兄たちにその道のりを歩ませようとしているのではないでしょうか。

 ヨセフのもとから解放された9人の兄たちは、父ヤコブのもとに帰ります。そしてエジプトで自分たちの身に起こったことを、すべて報告したのでした。兄たちが話したことは、ヤコブを当惑させずにはおれませんでした。エジプトの主君である人物が何を考えているのか、一向に分からなかったに違いありません。そして、そのエジプトの主君が命じたこと、すなわち末の息子を連れて来いという命令は、ラケルの二人の息子を寵愛していた父には、到底受け入れられるものではありませんでした。その父の思いは、38節に切々と語られています。「しかし、ヤコブは言った。『いや、この子だけは、お前たちと一緒に行かせるわけにはいかぬ。この子の兄は死んでしまい、残っているのは、この子だけではないか。お前たちの旅の途中で、何か不幸なことがこの子の身に起こりでもしたら、お前たちは、この白髪の父を、悲嘆のうちに陰府に下らせることになるのだ。』」ヤコブにしてみれば、末の子ベニヤミンをエジプトに連れていくことは、彼の生きる望みのすべて奪い去られるような出来事だったのです。しかし、主なる神の御心は、そうではありませんでした。ヤコブの家には、生死を左右する飢饉の大問題がありましたが、それとは別に親と子との問題、兄弟と兄弟の問題が横たわっていました。主なる神はヤコブの神・イスラエルの神として、彼らを顧みられます。そしてこれから、神を畏れる人ヨセフを通して、家族の問題にメスを入れ、それを解決することによって、ヤコブの家を飢饉からも助け出し、神の民の歴史を将来に向けて繋いでいこうとされるのです。その物語がしばらく続いていくのです。

 さて、改めて今日の物語は、私たちに何を語りかけているのでしょうか。ここには「試す」という言葉も出てきます。15節「その点について、お前たちを試すことにする。」この言葉は「精錬する」とも訳せる言葉です。「精錬する」というのは、鉱石を溶かし、不純物を取り除き、金属を精製する工程をいう言葉です。ヨセフはここで兄たちに復讐しているのでも、兄たちを罰しているのでもありません。彼らを「精錬」しているのです。真実を隠して「不安」に生きている人間から、真実を認める人間へと練り清めようとしているのです。そして、ここでの主体はヨセフではありますが、実はヨセフの背後にあって、主なる神が兄たちを精錬しようとしておられるのです。ヨセフはそのために用いられるのです。

 そして、この神様のなさり方は、「神の義」ということを、改めて私たちに深く考えさせるのです。「神の義」というのは「神の正しさ・正義」ということです。神の正義は人間の罪を憎み、悪を罰しないではおきません。そのように受け止めてきたのではないでしょうか。しかし、以前使っていた口語訳聖書は、詩編31篇1節で次のように語るのです。「主よ、わたしはあなたに依り頼みます。とこしえにわたしをはずかしめず、あなたの義をもってわたしをお助けください。」ここでは、「義によって助ける」と言われるのです。「神の義」とは罪を憎み、悪を罰するということだけに終わるものではないのです。「神の義」は厳しい意味合いを含みつつ、最終的にそれによって私たちが救われる。そういうことまでも示しているのです。ヨセフの兄たちにも、最後には赦しと喜びが訪れる。真実が明らかにされ、心を刺し通される経験をするけれども、その罪の赦しが宣言される。そしてそれを超える救いのご計画が、やがて彼らの前に姿を現すことになるのです。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義から私たちを清めてくださいます」(Ⅰヨハネ19)。まことに神さまは、褒め称えられるべきお方ではないでしょうか。お祈りをいたします。

(2020年7月19日)
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