教会の言葉
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11月のメッセージ
2018-12-14
「まず、そばに行くことから」
「ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した」。(ルカによる福音書10章33節)
牧師 藤田浩喜
大変有名な「善きサマリヤ人のたとえ」です。このたとえは、「では、わたしの隣人とはだれですか」という法律の専門家の問いに対して、主イエスが語られたものです。隣人というのは、当時のユダヤ社会では同胞民族、つまりユダヤ人であると考えられていました。しかし主イエスは、隣人をそんな狭い範囲に限定することはなさいません。愛の行為をもって使える対象がすべて隣人なのであり、困窮した人の「隣人となる」ことの大切さを教えられたのです。ところで今回のこのたとえを読み直して、今まで気づかなかったことを示されました。それは、たとえに登場する祭司、レビ人とサマリア人との最初の行動の違いです。追いはぎに襲われて半殺しにされた人を、この三人は目撃します。人が倒れていることに気づいたはずです。ところが、祭司とレビ人は進路を変え、道の向こう側を通って行ってしまいます。私たちにも覚えのあるような行動に、ドキッとさせられます。他方サマリア人は、「そばに来ると、その人を見て憐れに思い」、傷ついた人を介抱するのです。サマリア人はとにかく、その人のそばに行くのです。その人のところに行く、その人のそばに来るところから、隣人となることが始まるのです。困難に置かれた人のところに自分の体を運んでいく、そのことを通してその人の生きた言葉を聞くことができます。なぜ、その人がそんなに苦しんでいるのか、その人の思いがひしひしと伝わってきます。個人的な小さな体験ですが、東日本大震災の被災地である福島や仙台に行った時もそうでしたし、沖縄の辺野古に米軍の新基地反対の座り込みに行った時もそうでした。遠いところに身を置いて、評論家のようなことはいくらでも言える。しかし、苦しみのさ中にある人たちに、そのような薄っぺらな言葉は何の役にも立ちません。困難の中にある人たちの切実極まりない言葉と思いにじかに触れる、その時私たちの心には人間としての共感が湧き起り、どんなに小さくても具体的な行動へと促されずにはおられないのです。「隣人となる」ことは、苦しむ人のそばに行くことから始まります。そしてそれは、罪と死の苦しみにうめく私たちのそばに来て、隣人となってくださったイエス・キリストに倣うことなのであります。(2018年11月)