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教会の言葉

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3月のメッセージ
2019-04-19
「悔い改めに導かれるために」
「あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容とを軽んじるのですか。あなたは、かたくなな心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。」(ローマ書2章4~5節)
                         牧師  藤田浩喜
「かたくなな心」とは何でしょう。それは、罪を重ねていても、神は何も自分を罰しないのだから、神はいないか、神は怒り給うことはないと、思い上がる心です。かつてのアッシリア帝国がそうでした。アッシリアは周辺諸国を軍事力だけでなく、経済や文化の魅了する力で、自分の支配下に置きました。そして、反抗する者には極めて残虐な報復をもって臨んだのです。アッシリアは、自らの力におごり高ぶり、神などおられないかのごとく振る舞ったのです。しかし、そのアッシリアも新バビロニアによっ徹底的に滅ぼされてしまったのです。現在の日本の政治状況も、「かたくなな心」が蔓延しています。目的のためには手段を選ばない不正を重ねても、数の力で押し通し、うやむやにしてしまいます。世に神はいないか、神は怒り給うことはないと、おごり高ぶっています。神が人の悔い改めを願って、寛容と忍耐を示しておられることに思い至りません。そのような「かたくなな心」に対する神の怒りは蓄えられ、必ずや、裁きとして現れる日が来るのです。しかし、神の何よりの願いは、私たち人間が悔い改めに導かれることです。そのために神は、私たちではなく、私たちの代わりに御子イエス・キリストを十字架にかけられました。神は義なる方で罪を見過ごしにはされませんが、その裁きを十字架の御子が私たちの身代わりとして受けてくださったのです。そのような人間に対する豊かな慈愛と寛容とを、私たちは軽んじてはならないのです。神は一つ罪を犯したからといって、すぐに私たちに報いるようなことはなさいません。否、どんなに罪を重ねても、神はじっと忍耐してくださる。御子キリストが、十字架でその裁きを受けてくださったからです。それは、私たちを裁くためではなく、私たちを悔い改めに導くためなのです。罪を重ねる私たちが今もなお生き得ているのは、御子イエス・キリストのゆえです。神はいない、神は怒り給うことはないという「かたくなな心」を捨て、神の慈愛と寛容さに感動し、悔い改めに導かれたいと思います。カルヴァンが言っているように、「私たちの全生涯が悔い改め」なのであります。(2019年3月)
 

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