教会の言葉
12月のメッセージ
『神の贈り物』 牧師 三輪恵愛
コリントの信徒への手紙二第9章6-15節
15節「言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。」
創立100周年を迎えた2025年もクリスマスが近づく頃になりました。翌年6日の公現日まで続くので、教会はクリスマスを祝いながら年を越します。それは一年の苦労が募る頃です。身体も心も疲れています。疾病、悩み、仕事上の課題、人間関係のもつれ。様々な重荷を抱えています。すべてリセットされればどれほど嬉しいでしょうか。せめて一年の労への報いを受け取りたいものです。
100年前のクリスマスも日本の街々は商戦で賑わっていたようです。「「氣の早い東京人の常、十二月一日になったばかりで、もう目抜きの街々には歳末気分がみなぎりだした。そして二十五日はクリスマスの飾りも出来てゐる」、1925年12月3日の朝日新聞は和装の女性がプレゼントを抱えて歩く姿を伝えます。「外人の邸宅又は耶蘇信仰の家々にては種々の贈物をなし・・・サンタクロースの齎らし来る幸福を亨けて遊ぶなるべし」。こちらは1906年のクリスマスの記事です。贈り物を交換し、楽しく遊び過ごすクリスマスの情景は100年以上、様相が変わっていません。
「贈り物」を願う心はいつの時代も皆、持つものです。幼稚園のある子が「サンタさんに『ぼくが欲しがっているものを頂戴』ってお願いしたよ」と言ったそうです。名言です。人は自分の持っていない物が欲しいのです。それが思いもよらぬ、しかも本当に欲しいものならばどれほど嬉しいことでしょうか。
1907年の雑誌『婦人画報』の目次を見て驚きました。巻頭言が植村正久の「罪と救い」という説教でした。一般の雑誌がクリスマス特集に説教を掲載していたのです。植村は当時、富士見町教会の牧師でした。1904年には「キリストを縮小するなかれ」という主題で説教をしています。「キリストを神としない、神は信じるけれどもイエスを信じないというような人はどの点で躓くかというと、いかにもキリストが人らしくて、これが神であるとは疑わしいと思うからであろう」。生まれてすぐに飼い葉おけに寝かせられ、人々に仕える僕として生き、十字架の罪びととして死なれたイエスが神であり救い主だと人は到底信じられない、だからクリスマスもキリスト抜きで祝うというのです。そして「真にイエスを知り、彼が神であることを認めて、これを拝み、これに祈りをするようになるには…イエスに向かって望むこと、イエスからもらいたいと思うこと、イエスのために計画をすること・・・これを大いに考えなければならぬ」と聴き手に迫り、重荷を遠慮せず大いにイエス・キリストに委ねようと呼びかけます。100年以上前に、神がイエス・キリストをわたしたちの「贈り物」としてくださった喜びが雄弁に説き明かされていたのです。
飼い葉おけの貧しい御姿で救い主が生まれた出来事は、神が貧困と窮乏に眼差しを向けておられることを告げます。第二コリント5章のように、教会は当初より人に与えることを最大の務めとしてきました。クリスマスも教会は助けを求める人のために祈り、働きます。それは人間がすでに「言葉では言い尽くせない贈り物」を受け取っているからだとパウロは言います。わたしたちが本当に欲しがっていて、しかももう受け取っている最高の「贈り物」があるのです。生きていくなかで抱えるすべての重荷を委ねることの出来る存在です。そのお方がイエス・キリストなのです。
植村はさきほどの説教でこう結びます。「イエスは大いなる富と力と自由とを持ち、手をひろげて待っておられる」。この手の内に一年間の労苦をさし出しましょう。自分で頑張ることをやめて、膝を柔らかにして、キリストを拝んでみましょう。そして身軽になって新しい一年を迎えましょう。創立101年目も皆と共に身軽になり、心をあげて、神様から受け取った「贈り物」、イエス・キリストの命に活かされていきたいと心から願っています。
11月のメッセージ
『もう一つの創立記念日』 牧師 三輪恵愛
「他の土台は誰にも据えることはできません、すでに据えられたものの他には。それはイエス・キリストです。」
「他の土台は誰にも据えることはできません、すでに据えられたものの他には。それはイエス・キリストです。」
コリントの信徒への手紙一 第3章11節
西宮中央教会は11月12日に創立100周年を迎えます。9月、10月、11月には記念礼拝やリサイタルが行われました。そのようななかで世界中のプロテスタント教会では10月31日の宗教改革記念日も祝われました。1517年のこの日、修道士マルティン・ルターはヴィッテンベルクの城門の扉に95か条の提題を掲げました。次の日11月1日の「諸聖人の祝祭日」に多くの人が教会に来ることに眼をつけたのです。狙いは的中し、提題の文意は瞬く間にヨーロッパ中に広がりました。そして今なお全ての教会に、揺らぐことのない真実の土台を想い起こす時を与え続けています。
一般的に「宗教改革」と呼ばれるこの出来事は、ドイツ語や英語ではRを大文字にし、Reformationと表記し特別な意味を持たせています。リフォームは、建築においては内装に手を加えて部分的に新しくするように、今あるものを活かして見た目を改めることを指します。リフォーメイションになると、土台は残して「上物」を一度、全部取り壊し、建て直すこととなり、意味はまったく違うものとなります。
ルターの提題は教会の「内装」を変えるだけには留まらず、「上物」をすべて取り壊すほどの勢いがありました。提題の第一条には「私たちの主であり師であるイエス・キリストが、『悔い改めよ(マタイ4:17)』と言われたとき、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである」と記されています。「悔い改め」、これは新約聖書の原典のギリシャ語によればメタノエオーと言います。主要な意味は「向きなおり」です。つまり「悔い改め」とは、神さまへと全身を向き直らせることなのです。
ルターがこう書きださずにはいられなかったのは、当時の教会が神へと向き直るキリストのみ言葉への信頼を失っていたからです。神へ向き直ることをやめると人はどこを向くでしょうか。人です。人の業であり、人の言葉に身を向けます。人を見続けるとき、生活の中心は自分自身の周囲をぐるぐる回っているような生き方になります。悔い改めは、そこから突如として神へと向き直りが始まることです。それは人間の意思が先立つ行為ではありません。向き直りのきっかけは常に神の言葉によってもたらされます。聖書から響く神の言葉が「この方を見なさい」とキリストの姿を露わに示すのです。
ルターは聖書を深く読み込んでいく中で、次々と露わにされる罪意識に苦しみながらも、そこに射し込むみ言葉の光に照らされました。「上物」が何度も崩される体験を重ね、み言葉の光がさし示す土台は揺らぐことがないことを知ったのです。ルターは何度でも新しく立ち上がれる喜びの力を、振り下ろすハンマーにのせて95条の提題を打ち付けました。10月31日は全ての教会のそれぞれの創立記念日に優る記念日となったのです。
西宮中央教会にはもう一つの記念日があります。1952年2月18日、これは日本基督教会に加わり「西宮中央教会」を名乗り始めた日です。単立教会から戦時中の日本基督教団への強制的な合同の時代を経て、日本キリスト教会という改革派教会の一つに加わりました。この日、キリストのみを土台として教会を建て上げる営みを、改めて歩み始めたのです。
創立100周年の節目を経て後、心に留め直していきたい日付はこの2月18日です。誘惑の襲うとき、人間の力は何も役に立ちません。砂の上には家は建てられないのです。むしろ自らの脆さ、弱さを認め切って「上物」を崩されたとき、そこに土台が見えてきます。イエス・キリストが再び来られる日まで、わたしたちは神のみ言葉をきき、全身を向けなおし続けます。そのときにいつも揺るぎない土台として支えてくださるお方がよみがえりの主、イエス・キリストなのです。
西宮中央教会は11月12日に創立100周年を迎えます。9月、10月、11月には記念礼拝やリサイタルが行われました。そのようななかで世界中のプロテスタント教会では10月31日の宗教改革記念日も祝われました。1517年のこの日、修道士マルティン・ルターはヴィッテンベルクの城門の扉に95か条の提題を掲げました。次の日11月1日の「諸聖人の祝祭日」に多くの人が教会に来ることに眼をつけたのです。狙いは的中し、提題の文意は瞬く間にヨーロッパ中に広がりました。そして今なお全ての教会に、揺らぐことのない真実の土台を想い起こす時を与え続けています。
一般的に「宗教改革」と呼ばれるこの出来事は、ドイツ語や英語ではRを大文字にし、Reformationと表記し特別な意味を持たせています。リフォームは、建築においては内装に手を加えて部分的に新しくするように、今あるものを活かして見た目を改めることを指します。リフォーメイションになると、土台は残して「上物」を一度、全部取り壊し、建て直すこととなり、意味はまったく違うものとなります。
ルターの提題は教会の「内装」を変えるだけには留まらず、「上物」をすべて取り壊すほどの勢いがありました。提題の第一条には「私たちの主であり師であるイエス・キリストが、『悔い改めよ(マタイ4:17)』と言われたとき、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである」と記されています。「悔い改め」、これは新約聖書の原典のギリシャ語によればメタノエオーと言います。主要な意味は「向きなおり」です。つまり「悔い改め」とは、神さまへと全身を向き直らせることなのです。
ルターがこう書きださずにはいられなかったのは、当時の教会が神へと向き直るキリストのみ言葉への信頼を失っていたからです。神へ向き直ることをやめると人はどこを向くでしょうか。人です。人の業であり、人の言葉に身を向けます。人を見続けるとき、生活の中心は自分自身の周囲をぐるぐる回っているような生き方になります。悔い改めは、そこから突如として神へと向き直りが始まることです。それは人間の意思が先立つ行為ではありません。向き直りのきっかけは常に神の言葉によってもたらされます。聖書から響く神の言葉が「この方を見なさい」とキリストの姿を露わに示すのです。
ルターは聖書を深く読み込んでいく中で、次々と露わにされる罪意識に苦しみながらも、そこに射し込むみ言葉の光に照らされました。「上物」が何度も崩される体験を重ね、み言葉の光がさし示す土台は揺らぐことがないことを知ったのです。ルターは何度でも新しく立ち上がれる喜びの力を、振り下ろすハンマーにのせて95条の提題を打ち付けました。10月31日は全ての教会のそれぞれの創立記念日に優る記念日となったのです。
西宮中央教会にはもう一つの記念日があります。1952年2月18日、これは日本基督教会に加わり「西宮中央教会」を名乗り始めた日です。単立教会から戦時中の日本基督教団への強制的な合同の時代を経て、日本キリスト教会という改革派教会の一つに加わりました。この日、キリストのみを土台として教会を建て上げる営みを、改めて歩み始めたのです。
創立100周年の節目を経て後、心に留め直していきたい日付はこの2月18日です。誘惑の襲うとき、人間の力は何も役に立ちません。砂の上には家は建てられないのです。むしろ自らの脆さ、弱さを認め切って「上物」を崩されたとき、そこに土台が見えてきます。イエス・キリストが再び来られる日まで、わたしたちは神のみ言葉をきき、全身を向けなおし続けます。そのときにいつも揺るぎない土台として支えてくださるお方がよみがえりの主、イエス・キリストなのです。
10月のメッセージ
教会の言葉 『世界に飛び込む神』
使徒言行録第14章8-20節 牧師 三輪恵愛
「神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。」(16-17節)
この言葉が語られたとき、パウロとバルナバは町の人々に「神々が人となった」と祭り上げられ、いけにえまで捧げられようとしていました。パウロが一人の足の不自由な人を癒したからです。
ここには神さまを信じている人の「重荷を降ろせる場所」が示されています。行いがや言葉が「ああ、神さまは本当にいるんですね」と言われたらどんなに嬉しいことでしょうか。でも日々の暮らしのなかで、いつも「神を証しする」意識を持ち続けることは容易ではありません。パウロは「神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません」と語ります。「神を証しする」ことへの難しさを感じても、それを重荷にすることはありません。神を証しするのは神ご自身なのです。
パウロはこのようにも語ります。「すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。」21世紀に入って四半世紀が経とうとしています。この時代は「ポストモダン」とも呼ばれます。モダン、すなわち近代では理性について、歴史について、真理について、自分自身について、倫理について「人間が普遍的に共有できる一つの価値観が存在する」と信じられてきました。「斉一性」と言われるものです。しかしポストモダンでは斉一性が大いに揺さぶられることとなりました。共有できる価値観を求めて論を戦わせることは「無益な争い」と見做され、あらゆる価値観が相対的に理解されていきます。
多くの神々を崇めていたこの町の人々は、バルナバを「ゼウス」、パウロを「ヘルメス」になぞらえ新しい神々に祭り上げようとしました。一人ひとりのパーソナルな神を持つ「神々のアラカルト」では、好きなものを「神」に仕立て、気に入らなければ捨てることもできます。「思い思いの道を行くがまま」、神という存在も相対的に捉えられていたのです。
パウロはそのような「群衆のなかへ飛び込んでいき(14節)」ました。ここにもう一つの神のなさり方が記されています。神は確かにご自分でご自分を証しされます。同時に証しのために用いる人を「思い思いの道を行く」人々の只中に飛び込ませるのです。そこで人と人が交わりを持つための、大切な接点が生み出されます。
パウロが「神だけが神を証しする」と叫ぶことができたのはなぜでしょうか。パウロ自身、この世界に飛び込んでくる神と出会ったからです。ユダヤ人としての自分の正しさのみで救われようと躍起になっていたところに、ダマスコへと続く道の途中、突然、光に包まれて、十字架に架かったイエス・キリストがご自分の身を示されました。パウロは律法を正しく守る自分の意志の強さで救われたいと願っていました。じつはそれも自分の力で神に近い存在になっていく道、「思い思いの道を行くがまま」だったのです。しかし主イエスはそのような彼のもとに飛び込み、出会い、ご自分を証しするものへと造り変えたのです。
日々の暮らしのなかで、信仰を持たない人たちと生活のスタイルはほとんどかわりません。けれどもわたしたちには聖書と説教を通してみ言葉が語られます。主は今日も、わたしたちのもとにみ言葉を通して飛び込んでこられます。わたしたちと出会い、新しく作り変えるために。そしてわたしたちを、人と人が交わりを持つ接点へ飛び込ませてくださいます。
パウロが足の不自由な人を立ち上がらせるためにしたことは「自分の足でまっすぐに立ちなさい(10節)」と言っただけでした。わたしたちは普段の言葉を語ります。周りと変わらない振る舞いをします。しかしそのようなわたしたちを用いて、神ご自身がご自分を証しなさいます。神だけが、神がそこに生きておられることを証する最善の出来事を起されます。そのために、この時代の毎日を生きるわたしたちをお用いになるのです。
使徒言行録第14章8-20節 牧師 三輪恵愛
「神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。」(16-17節)
この言葉が語られたとき、パウロとバルナバは町の人々に「神々が人となった」と祭り上げられ、いけにえまで捧げられようとしていました。パウロが一人の足の不自由な人を癒したからです。
ここには神さまを信じている人の「重荷を降ろせる場所」が示されています。行いがや言葉が「ああ、神さまは本当にいるんですね」と言われたらどんなに嬉しいことでしょうか。でも日々の暮らしのなかで、いつも「神を証しする」意識を持ち続けることは容易ではありません。パウロは「神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません」と語ります。「神を証しする」ことへの難しさを感じても、それを重荷にすることはありません。神を証しするのは神ご自身なのです。
パウロはこのようにも語ります。「すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。」21世紀に入って四半世紀が経とうとしています。この時代は「ポストモダン」とも呼ばれます。モダン、すなわち近代では理性について、歴史について、真理について、自分自身について、倫理について「人間が普遍的に共有できる一つの価値観が存在する」と信じられてきました。「斉一性」と言われるものです。しかしポストモダンでは斉一性が大いに揺さぶられることとなりました。共有できる価値観を求めて論を戦わせることは「無益な争い」と見做され、あらゆる価値観が相対的に理解されていきます。
多くの神々を崇めていたこの町の人々は、バルナバを「ゼウス」、パウロを「ヘルメス」になぞらえ新しい神々に祭り上げようとしました。一人ひとりのパーソナルな神を持つ「神々のアラカルト」では、好きなものを「神」に仕立て、気に入らなければ捨てることもできます。「思い思いの道を行くがまま」、神という存在も相対的に捉えられていたのです。
パウロはそのような「群衆のなかへ飛び込んでいき(14節)」ました。ここにもう一つの神のなさり方が記されています。神は確かにご自分でご自分を証しされます。同時に証しのために用いる人を「思い思いの道を行く」人々の只中に飛び込ませるのです。そこで人と人が交わりを持つための、大切な接点が生み出されます。
パウロが「神だけが神を証しする」と叫ぶことができたのはなぜでしょうか。パウロ自身、この世界に飛び込んでくる神と出会ったからです。ユダヤ人としての自分の正しさのみで救われようと躍起になっていたところに、ダマスコへと続く道の途中、突然、光に包まれて、十字架に架かったイエス・キリストがご自分の身を示されました。パウロは律法を正しく守る自分の意志の強さで救われたいと願っていました。じつはそれも自分の力で神に近い存在になっていく道、「思い思いの道を行くがまま」だったのです。しかし主イエスはそのような彼のもとに飛び込み、出会い、ご自分を証しするものへと造り変えたのです。
日々の暮らしのなかで、信仰を持たない人たちと生活のスタイルはほとんどかわりません。けれどもわたしたちには聖書と説教を通してみ言葉が語られます。主は今日も、わたしたちのもとにみ言葉を通して飛び込んでこられます。わたしたちと出会い、新しく作り変えるために。そしてわたしたちを、人と人が交わりを持つ接点へ飛び込ませてくださいます。
パウロが足の不自由な人を立ち上がらせるためにしたことは「自分の足でまっすぐに立ちなさい(10節)」と言っただけでした。わたしたちは普段の言葉を語ります。周りと変わらない振る舞いをします。しかしそのようなわたしたちを用いて、神ご自身がご自分を証しなさいます。神だけが、神がそこに生きておられることを証する最善の出来事を起されます。そのために、この時代の毎日を生きるわたしたちをお用いになるのです。
9月のメッセージ
『自分を捨てて、キリストのものになる』
ルカによる福音書第9章21-27節 牧師 三輪 恵愛
「それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、 自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(23節)
ルカによる福音書第9章21-27節 牧師 三輪 恵愛
「それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、 自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(23節)
9月に入り、西宮中央教会百周年記念誌の初校を入稿しました。11月9日の創立記念礼拝に合わせての発刊を目指し、これから全体的な校正作業が始まります。
記念誌の中心に一人一人の証しを据えました。教会での思い出が語られるなかで、同じ歩みは二つとしてありません。でも一様に語られていることは生きることへの希望です。650字の制限のなか、厳選された言葉の奥には絶望の暗い淵に立たされた過去があり、だからこそ生きる希望が語られます。それでも生きていこうと思える希望が一歩を踏みとどまらせたのです。それは神の言葉から聞こえてきた希望です。
弟子たちに、イエスさまは幾度も「自分を捨てなさい」と命じられます。初めて聞く人を大いに戸惑わせる言葉です。率直に「捨てたくない」と感じます。「わたし」はわたしのものだからです。
もしもその人が「わたし」に対する絶対的な主人だとしたら、希望に生きることも、絶望することも「わたし」の自由です。紆余曲折の多い生涯のなかで、希望に満ちているときは「わたし」を絶対に手放すことはしません。絶望したときは、「わたし」などもう手放して、暗い淵へと放り投げてることも出来る、そういう自由をわたしたちは持っているのでしょうか。
「自分を捨てなさい」。それは「わたし」の境遇が希望に満ちていようと、絶望の淵に立たされようと、「わたし」を捨てることで命を得るためです。「わたしはあなたを絶対に見捨てない(創世記28:15)」との御言葉と、「自分を捨てなさい」との御言葉は矛盾しません。むしろそこに一点の結び目があります。わたしが「わたし」の主人であることを捨てるとき、主なる神が「わたし」の本当の持ち主であることを知るのです。命の始まりから終わりまで、すべての瞬間に至るまで「あなたの主はわたしである」と語り聞かせてくださいます。その一言が、絶望の淵に立たされたとき一歩を踏みとどまらせるのです。
学生の時、親しい友人が心を病みました。盛んに死ぬことを口にし、自分のことを蔑んで仕方がありませんでした。幼い頃に父親に盛んに暴力を振るわれたこと、家を出ていき、残された母とは意思疎通が効かないことを涙ながらに何度も語ります。「今、ホームから飛び込む」と電話がかかってきたときは心臓を何かに鷲掴みされた感覚に陥りました。思わず叫び返しました。「お前が死んだら絶対にいやだ!」。駆け付けるまで、一歩を踏みとどまってくれました。
「わたし」をわたしが支えられなくなったとき、わたしよりも遙かに力あるお方がわたし以上に「わたし」を支え、生かそうとしているのです。
「悲しみの本質は、悲しむ者がいかなる将来をも、もう持っていないところにあります。悲しむ者には、ただ過去しかないのです。しかし今、わたしたちは教会として集まっています。『憐みの父』が、わたしたちを慰めてくださるためです。苦難と悲しみのなかにあって、将来に至る道を、神がわたしたちに拓いてくださるのです(R・ボーレン、説教『神が慰めてくださる!』より)」
絶望の淵に立たされたとき「あなたはわたしのものだ」と叫ぶ声が聞こえます。掴んで離さない方がいます。それどころか淵のむこうへ落ち込んでも、深い底にまで飛び込んできてくださる方がいるのです。三日目に復活された主は、死の絶望すらも飛び越えて「わたし」の主人である約束を果たしてくださいます。
将来、記念誌を紐解かれる読者には「自分を捨て」、キリストのものとなった人々の証しの言葉が届けられます。心が躍ります。そしてそれも100年の歳月の一幕に過ぎません。神の言葉から生ける希望を受け取り、将来に向けて主と共にそれぞれの十字架を担って生きるわたしたちの姿こそが、神の希望の最良の証しです。神はわたしたちがどんな「わたし」であっても捨てません。それがキリストの福音であり、人間にとっての生きる希望なのです。
8月のメッセージ
『しようとしていることを知っている友へ』
ヨハネによる福音書第15章11-17節 牧師 三輪 恵愛
「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(15節)
自分が「何をしているか知らない」ままにそれに従い、手を下したことで歴史に刻み込まれた「傷跡」というべき過去があります。ゲシュタポ・ユダヤ人課長だったアドルフ・アイヒマンは絶滅収容所に約500万人のユダヤ人を送り込んだ責任を問われ「命令に従っただけ」と応えました。大西瀧治郎中将は「体当たりの決意さえあれば勝利は絶対にわれに在る。量の相違など問題ではない」と公言し、延べ6371名を命令一下に特攻死させました。エノラ・ゲイの機長ポール・ティベッツも、ボックス・カーの機長チャールズ・W・スウィーニーも「勝利のために、軍の命令に従った」と語り、原爆投下の正当性を否定することはありませんでした。
「僕は主人が何をしているか知らない」。十字架に架かる前の夜、ともに食卓を囲みながら主は言われます。たしかに弟子たちは僕だったのです。主の御声に耳を傾け、行い、語ります。しかし「主人が何をしているか知らない」ままで従い続けるうちに何かがズレていきます。ほんの小さなズレが積み重なり、大きなズレとなります。そして主人がしようとしていることとはかけ離れていくのです。
1945年8月9日11時2分、長崎医科大学の外科診療室で一人の医師が突然、激しい熱戦に眼を射られ、爆風に吹き飛ばされました。原子爆弾のさく裂から直線距離わずか400mの院内で、約四割にあたる877名が即死するなか、窓から飛び降り生き残ったその医師は、自身の怪我も顧みず、次々と運び込まれる負傷者の治療を続けました。敗戦後48年目の8月15日に残した手記の中で、その医師、川本正七氏はこう綴っています。
「私が生き残ったのは何故であったのか・・・。自分の意志で、死を免れたのではない。すべては見えない神の御意志によるとしか考えられない。では私は何をなすべきであろうか。・・・この生命は自分のものではない。与えられた賜物である。自分の為に生きてはならない。」(川本正七「原爆と聖書」196p~197p)
その夜、「ナザレのイエスを殺せ」との命令一下、兵士たちに捕らえられ、「偽のメシアを殺せ」との命令一下、裁判に懸けられ「ユダヤ人の王を殺せ」との命令一下、十字架の上に釘付けにされていきます。「しようとしていること」、すなわち、この世を神が愛しておられる真実を知らされるのは、命令一下、神の子の命が追いやられ、捨て去られ、殺されていくところにおいてだったのです。
しかし神が「しようとしていること」を知らないまま大きくなったそのズレが破綻した、まさにそのところに神の愛は現れました。
「神の子キリストのように『敵をも赦し』『敵をも愛する』ことの出来る絶対平和者の存在そのものが平和の基盤であり、平和の推進役である。異なる神を信じる者を排斥し迫害し殺害する国や民族のあるかぎり、世界に争いと悲劇は絶えない。『神の子=光の子』が一人でも多く生まれてほしい。・・・たとい誤解され、罵られ、迫害されても、愛情と笑顔を絶やさない『光の子』でありたい」(上掲書200p)。川本氏はそう語り、神がしようとしていることへ大きく身を向けなおし、神のものとしての生涯を生きました。
本当に神が「しようとしていること」のすべてを知るのは、よみがえりの主が弟子たちを訪れ「父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせ」てくださるからです。弟子たちは「主人が何をしているか知らない」ものではありません。友であるイエスは愛情と笑顔を絶やさない「光の子」を一人でも多く生み出そうとしています。わたしたちは神がしようとしていることをいつも知らされているキリストの友なのです。
ヨハネによる福音書第15章11-17節 牧師 三輪 恵愛
「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(15節)
自分が「何をしているか知らない」ままにそれに従い、手を下したことで歴史に刻み込まれた「傷跡」というべき過去があります。ゲシュタポ・ユダヤ人課長だったアドルフ・アイヒマンは絶滅収容所に約500万人のユダヤ人を送り込んだ責任を問われ「命令に従っただけ」と応えました。大西瀧治郎中将は「体当たりの決意さえあれば勝利は絶対にわれに在る。量の相違など問題ではない」と公言し、延べ6371名を命令一下に特攻死させました。エノラ・ゲイの機長ポール・ティベッツも、ボックス・カーの機長チャールズ・W・スウィーニーも「勝利のために、軍の命令に従った」と語り、原爆投下の正当性を否定することはありませんでした。
「僕は主人が何をしているか知らない」。十字架に架かる前の夜、ともに食卓を囲みながら主は言われます。たしかに弟子たちは僕だったのです。主の御声に耳を傾け、行い、語ります。しかし「主人が何をしているか知らない」ままで従い続けるうちに何かがズレていきます。ほんの小さなズレが積み重なり、大きなズレとなります。そして主人がしようとしていることとはかけ離れていくのです。
1945年8月9日11時2分、長崎医科大学の外科診療室で一人の医師が突然、激しい熱戦に眼を射られ、爆風に吹き飛ばされました。原子爆弾のさく裂から直線距離わずか400mの院内で、約四割にあたる877名が即死するなか、窓から飛び降り生き残ったその医師は、自身の怪我も顧みず、次々と運び込まれる負傷者の治療を続けました。敗戦後48年目の8月15日に残した手記の中で、その医師、川本正七氏はこう綴っています。
「私が生き残ったのは何故であったのか・・・。自分の意志で、死を免れたのではない。すべては見えない神の御意志によるとしか考えられない。では私は何をなすべきであろうか。・・・この生命は自分のものではない。与えられた賜物である。自分の為に生きてはならない。」(川本正七「原爆と聖書」196p~197p)
その夜、「ナザレのイエスを殺せ」との命令一下、兵士たちに捕らえられ、「偽のメシアを殺せ」との命令一下、裁判に懸けられ「ユダヤ人の王を殺せ」との命令一下、十字架の上に釘付けにされていきます。「しようとしていること」、すなわち、この世を神が愛しておられる真実を知らされるのは、命令一下、神の子の命が追いやられ、捨て去られ、殺されていくところにおいてだったのです。
しかし神が「しようとしていること」を知らないまま大きくなったそのズレが破綻した、まさにそのところに神の愛は現れました。
「神の子キリストのように『敵をも赦し』『敵をも愛する』ことの出来る絶対平和者の存在そのものが平和の基盤であり、平和の推進役である。異なる神を信じる者を排斥し迫害し殺害する国や民族のあるかぎり、世界に争いと悲劇は絶えない。『神の子=光の子』が一人でも多く生まれてほしい。・・・たとい誤解され、罵られ、迫害されても、愛情と笑顔を絶やさない『光の子』でありたい」(上掲書200p)。川本氏はそう語り、神がしようとしていることへ大きく身を向けなおし、神のものとしての生涯を生きました。
本当に神が「しようとしていること」のすべてを知るのは、よみがえりの主が弟子たちを訪れ「父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせ」てくださるからです。弟子たちは「主人が何をしているか知らない」ものではありません。友であるイエスは愛情と笑顔を絶やさない「光の子」を一人でも多く生み出そうとしています。わたしたちは神がしようとしていることをいつも知らされているキリストの友なのです。
7月のメッセージ
『見えない方を見ているように』 牧師 三輪恵愛
ヘブライ人への手紙第11章27節
信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。
神学校の卒業を間近に控えた日曜日の礼拝後、求道中の若い男性に乞われてお茶のテーブルを囲みました。その方は受洗を悩んでいました。「牧師になろうと思うほどイエス・キリストを強く信じたのですね。どうして信じられるようになったのですか」と問われました。
まだ起きてないことを予測することはある程度の知能をもつ動物にも可能です。しかし人間は予測した将来を超える決断をします。その決断は、それまでの経緯や複雑な人間関係のうえに成り立っていながら、それらを超越する自由のもとに起こります。
しばらくの沈黙をお許しいただいてから、「神の言葉を聞いて、信じたのです。だから牧師になろうと思いました」と答えました。この一言の裏側には、幾千言の説教を聴きながら生きた全てが蓄積していました。多くの人との出会いと交わりと置かれた状況の全てを用いて、神はわたしを召す言葉を語り給うたのです。
聖なる霊の御働きは目には見えません。人間の内に宿り、語らせ、動かすお方だからです。神の御心が現れる瞬間は、常に神の言葉を語られた後に訪れます。そこではイエス・キリストの背姿を追うかのような心境にもなりましょう。しかし同時に主はすぐ傍らにおられます。その時は今まさに自分自身が主の御心のために用いられて、救いの御業に、赦しの宣言の為に、教会への招きの言葉として、兄弟姉妹の友愛の証しとして生きている命を味わうでしょう。
教会で起きるすべての言動は「語られた声」に対するわたしたちの呼応の証しです。それは未来を予測して執る合理的な行動とは一線を画します。時に非合理とも思えるような言動のなかにも主の御心は顕われます。「合理性」がいわゆる「現代の価値観」の言い換えだとすれば、教会に生きる一人ひとりの魂のためにわたしたちが互いに時間を割き、費用を用い、祈りの言葉に心を込めて、足を運んでなされる友愛の行動は「非合理」と見做されることもありましょう。でも主はそれこそが値高く、ご自分の救いの業だと言われます。まったく束縛を受けない、神の自由のもとになされる行動だからです。
「目に見えない方を見ているようにして」生きるということは、自分の姿を通して自分を超える存在を示すということです。「基督者のうち『自己超越的な人』と呼ばれる人はその人の在り方が、その人だけではなく、その人を超えたものをさし示す。その長所も短所もその人を超えた『何ものか』を示しているし、それを示すために役立っている(渡辺善太「キリスト教的偉さ」、説教集「偽善者を生み出す処」所収)」。その人の全存在がキリストをさし示すとき、神は人間が「長所」と認めるところばかりを用いるのではないのです。長所も短所も全部含めた全人的な用い方をなさいます。
もしかすると「恥ずかしい」という感情は、キリスト者には次第に無縁になっていくのかもしれません。「恥ずかしい」という感情は「自分の理想的な姿を周囲の人々は期待している」と思い込む傲慢を温床としています。祈りは超越しているお方をさし示す行為のなかでも最たるものです。祈るとき、神の御前に緊張はしても、恥ずかしがることはありません。キリストを示している「自分がどう見えるか」は気にしなくてよいのです。そして礼拝は大きな共同の祈りです。
心静めて祈り、一つ讃美を歌い、一言主の祝福を告げるとき、見えないはずのお方が見えるようになります。すでにキリストを信じている人の全存在が用いられ、新たにキリストを信じる人は生み出されるのです。それゆえ主は霊となって、わたしたちの見えないところにまで迫り、結びついて、御心のままに働かれます。
ヘブライ人への手紙第11章27節
信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。
神学校の卒業を間近に控えた日曜日の礼拝後、求道中の若い男性に乞われてお茶のテーブルを囲みました。その方は受洗を悩んでいました。「牧師になろうと思うほどイエス・キリストを強く信じたのですね。どうして信じられるようになったのですか」と問われました。
まだ起きてないことを予測することはある程度の知能をもつ動物にも可能です。しかし人間は予測した将来を超える決断をします。その決断は、それまでの経緯や複雑な人間関係のうえに成り立っていながら、それらを超越する自由のもとに起こります。
しばらくの沈黙をお許しいただいてから、「神の言葉を聞いて、信じたのです。だから牧師になろうと思いました」と答えました。この一言の裏側には、幾千言の説教を聴きながら生きた全てが蓄積していました。多くの人との出会いと交わりと置かれた状況の全てを用いて、神はわたしを召す言葉を語り給うたのです。
聖なる霊の御働きは目には見えません。人間の内に宿り、語らせ、動かすお方だからです。神の御心が現れる瞬間は、常に神の言葉を語られた後に訪れます。そこではイエス・キリストの背姿を追うかのような心境にもなりましょう。しかし同時に主はすぐ傍らにおられます。その時は今まさに自分自身が主の御心のために用いられて、救いの御業に、赦しの宣言の為に、教会への招きの言葉として、兄弟姉妹の友愛の証しとして生きている命を味わうでしょう。
教会で起きるすべての言動は「語られた声」に対するわたしたちの呼応の証しです。それは未来を予測して執る合理的な行動とは一線を画します。時に非合理とも思えるような言動のなかにも主の御心は顕われます。「合理性」がいわゆる「現代の価値観」の言い換えだとすれば、教会に生きる一人ひとりの魂のためにわたしたちが互いに時間を割き、費用を用い、祈りの言葉に心を込めて、足を運んでなされる友愛の行動は「非合理」と見做されることもありましょう。でも主はそれこそが値高く、ご自分の救いの業だと言われます。まったく束縛を受けない、神の自由のもとになされる行動だからです。
「目に見えない方を見ているようにして」生きるということは、自分の姿を通して自分を超える存在を示すということです。「基督者のうち『自己超越的な人』と呼ばれる人はその人の在り方が、その人だけではなく、その人を超えたものをさし示す。その長所も短所もその人を超えた『何ものか』を示しているし、それを示すために役立っている(渡辺善太「キリスト教的偉さ」、説教集「偽善者を生み出す処」所収)」。その人の全存在がキリストをさし示すとき、神は人間が「長所」と認めるところばかりを用いるのではないのです。長所も短所も全部含めた全人的な用い方をなさいます。
もしかすると「恥ずかしい」という感情は、キリスト者には次第に無縁になっていくのかもしれません。「恥ずかしい」という感情は「自分の理想的な姿を周囲の人々は期待している」と思い込む傲慢を温床としています。祈りは超越しているお方をさし示す行為のなかでも最たるものです。祈るとき、神の御前に緊張はしても、恥ずかしがることはありません。キリストを示している「自分がどう見えるか」は気にしなくてよいのです。そして礼拝は大きな共同の祈りです。
心静めて祈り、一つ讃美を歌い、一言主の祝福を告げるとき、見えないはずのお方が見えるようになります。すでにキリストを信じている人の全存在が用いられ、新たにキリストを信じる人は生み出されるのです。それゆえ主は霊となって、わたしたちの見えないところにまで迫り、結びついて、御心のままに働かれます。
6月のメッセージ
『赦しの代理人』
ヨハネによる福音書第20章19-23節 牧師 三輪 恵愛
だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。
だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、
赦されないまま残る(23節)
5月11日の「子どもと大人の合同礼拝」では、23節よりあとに続くトマスの疑いと回心のところから説教をしました。「見ないで信じる者は幸いである」と言われるイエスさまの祝福の言葉を、子どもたちとその親たちと共に聴いたのです。合同礼拝は教会のわざです。こうして先に洗礼を受け、主の食卓に与り、教会の働きに参与するわたしたちは、今を生きる弟子として救いの御業に用いられるのです。
ただしヨハネが伝えるこの一連のよみがえりの主と弟子たちの再会は、「見ないで信じる者」への祝福を伝えるだけではなく、その根拠をも示します。外を恐れて閉じこもる弟子たちの真ん中に立ち、そこで任命される職権は罪の赦しです。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」。弟子たちが主から受け取った力は罪の赦しを宣言するものでした。この力を主は息を吹きかけながら、聖霊によって付与したのです。
ペンテコステが聖霊を受けた弟子の群れのなかに教会が建ったことを記念する日であるならば、わたしたちはこのよみがえりの主の姿にも目を向けるべきです。実際に今もわたしたちは人の罪の赦しを宣言する教会です。それは礼拝の式順で行われるものに限定されません。講壇で罪の赦しを宣言する牧師は教会の代理人に過ぎません。あの宣言の声は皆さんの声でもあるのです。わたしたちは互いに罪を赦します。教会の交わりはすべからく罪の告白を聴き、赦しの宣言をすることから始まります。これがもっとも教会らしい姿であり、ペンテコステから世の終わりまで変わることのない教会の本来的な役目です。
ここに奇蹟が起きています。神は罪人を用いて罪を赦すのです。罪人には本来罪を赦す権限も根拠も一切ありません。にもかかわらず神が罪人を用いて罪の赦しの宣言をなさるのは、罪の赦しの宣言そのものがまったく神の御力によることを示すためです。罪の赦しのために用いられる罪びとは、赦しの業に用いられることを通して、どれほど神がわたしたちの近くにおられるかを目撃し、体感し、追体験します。「子よ、あなたの罪は赦された」と言ってくださるイエス・キリストが今、たしかにわたしたちの内にあって、赦しの御業を起しておられることをもっとも近い所で知ります。
「あなたがたに平和があるように」と二度も祝福を語られ、堅く扉を閉ざしていた弟子たちを世に遣わすのは、付与したもうた赦しの権威を現代において世界中、余すところなく発揮されるためです。新しい息を吹きかけるのは、創造主が土くれからアダムを造り出された時と同じです。「聖霊を受けなさい」といって息を吹きかけ、罪の赦しを宣言する新しい人を造り出されるのです。聖霊は主イエス御自身から出て、わたしたち罪深いもののうちの深くまで入り込み、赦しを宣言する代理人に任命します。そして神との和解を果たしたからこそ与えられる、神との平和とともに世に遣わされます。
今月の月報を手に取って読んでくださるのは6月8日のペンテコステの後となるでしょう。聖霊降臨節に入った今、わたしたちは主に任されている教会の当初の任務に立ち帰り、留まりましょう。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と言ってくださる主が、わたしたちの内に働いておられます。そして「あなたがたに平和があるように」と言われた約束を果たしてくださるのです。わたしたち教会が罪の赦しを互いに、そして世に向かって宣言することによって!
5月11日の「子どもと大人の合同礼拝」では、23節よりあとに続くトマスの疑いと回心のところから説教をしました。「見ないで信じる者は幸いである」と言われるイエスさまの祝福の言葉を、子どもたちとその親たちと共に聴いたのです。合同礼拝は教会のわざです。こうして先に洗礼を受け、主の食卓に与り、教会の働きに参与するわたしたちは、今を生きる弟子として救いの御業に用いられるのです。
ただしヨハネが伝えるこの一連のよみがえりの主と弟子たちの再会は、「見ないで信じる者」への祝福を伝えるだけではなく、その根拠をも示します。外を恐れて閉じこもる弟子たちの真ん中に立ち、そこで任命される職権は罪の赦しです。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」。弟子たちが主から受け取った力は罪の赦しを宣言するものでした。この力を主は息を吹きかけながら、聖霊によって付与したのです。
ペンテコステが聖霊を受けた弟子の群れのなかに教会が建ったことを記念する日であるならば、わたしたちはこのよみがえりの主の姿にも目を向けるべきです。実際に今もわたしたちは人の罪の赦しを宣言する教会です。それは礼拝の式順で行われるものに限定されません。講壇で罪の赦しを宣言する牧師は教会の代理人に過ぎません。あの宣言の声は皆さんの声でもあるのです。わたしたちは互いに罪を赦します。教会の交わりはすべからく罪の告白を聴き、赦しの宣言をすることから始まります。これがもっとも教会らしい姿であり、ペンテコステから世の終わりまで変わることのない教会の本来的な役目です。
ここに奇蹟が起きています。神は罪人を用いて罪を赦すのです。罪人には本来罪を赦す権限も根拠も一切ありません。にもかかわらず神が罪人を用いて罪の赦しの宣言をなさるのは、罪の赦しの宣言そのものがまったく神の御力によることを示すためです。罪の赦しのために用いられる罪びとは、赦しの業に用いられることを通して、どれほど神がわたしたちの近くにおられるかを目撃し、体感し、追体験します。「子よ、あなたの罪は赦された」と言ってくださるイエス・キリストが今、たしかにわたしたちの内にあって、赦しの御業を起しておられることをもっとも近い所で知ります。
「あなたがたに平和があるように」と二度も祝福を語られ、堅く扉を閉ざしていた弟子たちを世に遣わすのは、付与したもうた赦しの権威を現代において世界中、余すところなく発揮されるためです。新しい息を吹きかけるのは、創造主が土くれからアダムを造り出された時と同じです。「聖霊を受けなさい」といって息を吹きかけ、罪の赦しを宣言する新しい人を造り出されるのです。聖霊は主イエス御自身から出て、わたしたち罪深いもののうちの深くまで入り込み、赦しを宣言する代理人に任命します。そして神との和解を果たしたからこそ与えられる、神との平和とともに世に遣わされます。
今月の月報を手に取って読んでくださるのは6月8日のペンテコステの後となるでしょう。聖霊降臨節に入った今、わたしたちは主に任されている教会の当初の任務に立ち帰り、留まりましょう。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と言ってくださる主が、わたしたちの内に働いておられます。そして「あなたがたに平和があるように」と言われた約束を果たしてくださるのです。わたしたち教会が罪の赦しを互いに、そして世に向かって宣言することによって!
5月のメッセージ
『神に結びつく生涯』 牧師 三輪恵愛
ルカによる福音書第24章50-53節
そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた(51節)
復活節を歩んでいます。よみがえりの主の姿を心に留める時節です。この時節には「主の昇天」も祝います。聖霊降臨日の10日前、今年は5月29日です。
よみがえりの主は暗い顔をして歩む二人の弟子とともにエマオへ向かい、聖書を説き明かし、食卓もともにされました。疑う弟子たちに御傷を示し「平和があるように」と息を吹きかけてくださいました。涙を流して悲しむマリアの名を呼び、天に昇られることを告げられました。ペトロに「わたしを愛しているか」と三度問われ、牧者への道を示されました。このように弟子たちへ溢れる愛を注ぎながら主は四十日間をともに過ごされます。
ついに天に昇られる時が来ました。一度死に別れた愛する人がよみがえったならば、きっと生前以上に一瞬一瞬を大切に過ごすでしょう。そしてふたたび別れの時がくればさらに深い悲しみを味わうでしょう。でも弟子たちは悲しんでいないのです。大喜びでエルサレムの神殿に戻り、神をほめたたえて過ごします。これが福音書の最後に記される弟子たちの姿です。
なぜ弟子たちは大喜びをしているのでしょうか。わたしたちは主の昇天にピリオドらしいものはなく、せいぜい中継地点だと考えます。けれどもここで決定的なピリオドは打たれました。それは主が御体のままで天に昇られたということです。そして神の救いの計画は新しい時代に進んだのです。
天に昇られた主は父なる神の右の座につかれました。それは蝶がさなぎの体を捨てるように魂が肉体から飛び去ったものではありません。人間の性質、本質、弱さ、欠け、悲しみ、不信頼、憎しみ、わたしたちの命の在りようを知り尽くしたお方が人の体のままで神の側に立たれたのです。主が天に昇られたことで天と地は解きがたく結び合わされたのです。いまや神の世界と人間の世界は引き離れることはなくなりました。イエス・キリストただお一人よってわたしたちの地上の全生活は神と結びつけられました。
大喜びをしながら神殿に帰っていくのは、旧約聖書に記されてきた神の救いのご計画の意味がわかったからです。神の言葉は世界のはじめから希望の光を語り続けていました。イエス・キリストが希望の光だとわかった弟子たちは神の言葉を聞きに神殿に戻り、とどまります。神の言葉は今も、そしてこれからも希望の光を語り続けます。
弟子たちが見た主の最後の御姿は、祝福しながら天に上げられていくものでした。人は愛する人の最後の姿、最後の表情を忘れられないものです。弟子たちを祝福し続けておられる主の御姿は永遠に続くものです。二千年の歳月を貫いて、牧会者の祝祷を用い、今も主は教会を祝福し続けておられます。
いつの時代も人間は自分たちの手で神々を造り出し、恐れ、伏し拝み、犠牲をささげてその時代をなんとか生き抜こうとしてきました。しかし誤った信頼は心からの讃美を生み出しません。喜びにはつながりません。人間を落胆させるものは福音ではないのです。今、わたしたちが貧しく、喜びもないと感じているならば、すぐそばに大きな喜びがあり続けたことを想い起こしましょう。神をほめたたえ、大喜びする人。それはすべてを神に頼り切り、神が手渡してくださる恵みで生き、全生活が神に支えられていることを確信している人です。すべての生活が神に結びついています。そのような人には自分が何のために造られ命を与えられたかが必ず明らかにされるでしょう。
昇天の主に祝福されることを大喜びし、礼拝をささげるところにとどまり、神をほめたたえ続けてきた代々の弟子たちの姿が、わたしたちの本当の姿であることを思い出しましょう。わたしたちが生きているのは神の栄光をほめたたえるためなのです。どのような時代にあっても神を賛美するためなのです。
そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた(51節)
復活節を歩んでいます。よみがえりの主の姿を心に留める時節です。この時節には「主の昇天」も祝います。聖霊降臨日の10日前、今年は5月29日です。
よみがえりの主は暗い顔をして歩む二人の弟子とともにエマオへ向かい、聖書を説き明かし、食卓もともにされました。疑う弟子たちに御傷を示し「平和があるように」と息を吹きかけてくださいました。涙を流して悲しむマリアの名を呼び、天に昇られることを告げられました。ペトロに「わたしを愛しているか」と三度問われ、牧者への道を示されました。このように弟子たちへ溢れる愛を注ぎながら主は四十日間をともに過ごされます。
ついに天に昇られる時が来ました。一度死に別れた愛する人がよみがえったならば、きっと生前以上に一瞬一瞬を大切に過ごすでしょう。そしてふたたび別れの時がくればさらに深い悲しみを味わうでしょう。でも弟子たちは悲しんでいないのです。大喜びでエルサレムの神殿に戻り、神をほめたたえて過ごします。これが福音書の最後に記される弟子たちの姿です。
なぜ弟子たちは大喜びをしているのでしょうか。わたしたちは主の昇天にピリオドらしいものはなく、せいぜい中継地点だと考えます。けれどもここで決定的なピリオドは打たれました。それは主が御体のままで天に昇られたということです。そして神の救いの計画は新しい時代に進んだのです。
天に昇られた主は父なる神の右の座につかれました。それは蝶がさなぎの体を捨てるように魂が肉体から飛び去ったものではありません。人間の性質、本質、弱さ、欠け、悲しみ、不信頼、憎しみ、わたしたちの命の在りようを知り尽くしたお方が人の体のままで神の側に立たれたのです。主が天に昇られたことで天と地は解きがたく結び合わされたのです。いまや神の世界と人間の世界は引き離れることはなくなりました。イエス・キリストただお一人よってわたしたちの地上の全生活は神と結びつけられました。
大喜びをしながら神殿に帰っていくのは、旧約聖書に記されてきた神の救いのご計画の意味がわかったからです。神の言葉は世界のはじめから希望の光を語り続けていました。イエス・キリストが希望の光だとわかった弟子たちは神の言葉を聞きに神殿に戻り、とどまります。神の言葉は今も、そしてこれからも希望の光を語り続けます。
弟子たちが見た主の最後の御姿は、祝福しながら天に上げられていくものでした。人は愛する人の最後の姿、最後の表情を忘れられないものです。弟子たちを祝福し続けておられる主の御姿は永遠に続くものです。二千年の歳月を貫いて、牧会者の祝祷を用い、今も主は教会を祝福し続けておられます。
いつの時代も人間は自分たちの手で神々を造り出し、恐れ、伏し拝み、犠牲をささげてその時代をなんとか生き抜こうとしてきました。しかし誤った信頼は心からの讃美を生み出しません。喜びにはつながりません。人間を落胆させるものは福音ではないのです。今、わたしたちが貧しく、喜びもないと感じているならば、すぐそばに大きな喜びがあり続けたことを想い起こしましょう。神をほめたたえ、大喜びする人。それはすべてを神に頼り切り、神が手渡してくださる恵みで生き、全生活が神に支えられていることを確信している人です。すべての生活が神に結びついています。そのような人には自分が何のために造られ命を与えられたかが必ず明らかにされるでしょう。
昇天の主に祝福されることを大喜びし、礼拝をささげるところにとどまり、神をほめたたえ続けてきた代々の弟子たちの姿が、わたしたちの本当の姿であることを思い出しましょう。わたしたちが生きているのは神の栄光をほめたたえるためなのです。どのような時代にあっても神を賛美するためなのです。
4月のメッセージ
『主は今、生きておられる』 牧師 三輪恵愛
ルカによる福音書 第2章1-12節
ルカによる福音書 第2章1-12節
「 なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」(4節)
月報は「教会の言葉」と題されたこの一文から始まります。教会の言葉は多様なようで、実は一つのことしか語っていません。イエス・キリストの命です。主は今、生きておられる。この真実を語り続けるのが教会です。いろんなことを語るにしても、イエス・キリストが今生きておられる真実に結びつかない言葉は流れ去っていくでしょう。教会が教会であり続けることはすべてイエス・キリストが今生きておられることに依拠します。
受難節が過ぎ、復活節が始まろうとするこのとき、教会はいつにも増して喜びと希望に溢れて声をあげます。「主は今、生きておられる!」と。これはイエス・キリストのご遺体が十字架から降ろされ、一日は墓のなかに葬られ、日曜日の明け方に女性の弟子たちが訪ねていく時の中で準備されてきた言葉でした。
でも弟子たちは忘れていました。「主は今、生きておられる」ことを。だから愛するイエスを死人のなかに探し求めます。それはこの世に在っては常識的なことでした。遺体は墓に「ある」からです。あらゆる人間は死を受け入れなければならない。弟子たちは主をそのような存在として理解していたのです。頭のなかでは神は存在しこの世の主だと理解しながら、地上に出現するすべてのものは死んでしまうと見做していたのです。そのような時、信仰は観念的なものにとどまります。無自覚に神が無力であると思い込み、神すらも死の支配をまぬかれないという信仰の変質が起きるのです。そこで弟子たちは弟子としての言葉、教会の言葉を失います。
イエス・キリストはまさにこの信仰の変質を炙り出し、神の与え給うままの在り方へと引き戻すために復活するのです。そして弟子たちの口にこの教会の言葉を与えるのです。「主は今、生きておられる」。この福音なしにはいくらイースターの讃美歌を歌おうと、神を讃美する歌声にはなりません。墓に舞い降りた天使たちは、弟子たちを主との再会へと導きます。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」
死ぬことの出来ないお方が死なれたのは、神が死に勝利し、支配しておられる事実を何度も弟子たちに語り聞かせて、「主は今、生きておられる」と告白するものへと新しくするためです。弟子たちは徐々に主の復活を疑うのではなく、死がこの世を支配していることを疑うようになり、やがてまったく信じなくなります。自分の死が迫るときにも「主は今、生きておられる」と告白します。死がこの世を支配しているのではなく、神が支配をしている真実を、全存在を懸けて信じるようになります。そしてあらゆる生きるための算段を、死からではなく、永遠の命を起点にして考え、語り、行動するようになります。そうなればイエス・キリストの復活を考えるたびに途方に暮れることはありません。
なぜ生きた方を死人のなかに探すのですか。わたしたちの命の本当にすぐそばに、あの方は懐かしい御姿で立っておられるのです。わたしたちが希望に溢れて「主は今、生きておられる!」との教会の言葉を世に告げるために。
月報は「教会の言葉」と題されたこの一文から始まります。教会の言葉は多様なようで、実は一つのことしか語っていません。イエス・キリストの命です。主は今、生きておられる。この真実を語り続けるのが教会です。いろんなことを語るにしても、イエス・キリストが今生きておられる真実に結びつかない言葉は流れ去っていくでしょう。教会が教会であり続けることはすべてイエス・キリストが今生きておられることに依拠します。
受難節が過ぎ、復活節が始まろうとするこのとき、教会はいつにも増して喜びと希望に溢れて声をあげます。「主は今、生きておられる!」と。これはイエス・キリストのご遺体が十字架から降ろされ、一日は墓のなかに葬られ、日曜日の明け方に女性の弟子たちが訪ねていく時の中で準備されてきた言葉でした。
でも弟子たちは忘れていました。「主は今、生きておられる」ことを。だから愛するイエスを死人のなかに探し求めます。それはこの世に在っては常識的なことでした。遺体は墓に「ある」からです。あらゆる人間は死を受け入れなければならない。弟子たちは主をそのような存在として理解していたのです。頭のなかでは神は存在しこの世の主だと理解しながら、地上に出現するすべてのものは死んでしまうと見做していたのです。そのような時、信仰は観念的なものにとどまります。無自覚に神が無力であると思い込み、神すらも死の支配をまぬかれないという信仰の変質が起きるのです。そこで弟子たちは弟子としての言葉、教会の言葉を失います。
イエス・キリストはまさにこの信仰の変質を炙り出し、神の与え給うままの在り方へと引き戻すために復活するのです。そして弟子たちの口にこの教会の言葉を与えるのです。「主は今、生きておられる」。この福音なしにはいくらイースターの讃美歌を歌おうと、神を讃美する歌声にはなりません。墓に舞い降りた天使たちは、弟子たちを主との再会へと導きます。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」
死ぬことの出来ないお方が死なれたのは、神が死に勝利し、支配しておられる事実を何度も弟子たちに語り聞かせて、「主は今、生きておられる」と告白するものへと新しくするためです。弟子たちは徐々に主の復活を疑うのではなく、死がこの世を支配していることを疑うようになり、やがてまったく信じなくなります。自分の死が迫るときにも「主は今、生きておられる」と告白します。死がこの世を支配しているのではなく、神が支配をしている真実を、全存在を懸けて信じるようになります。そしてあらゆる生きるための算段を、死からではなく、永遠の命を起点にして考え、語り、行動するようになります。そうなればイエス・キリストの復活を考えるたびに途方に暮れることはありません。
なぜ生きた方を死人のなかに探すのですか。わたしたちの命の本当にすぐそばに、あの方は懐かしい御姿で立っておられるのです。わたしたちが希望に溢れて「主は今、生きておられる!」との教会の言葉を世に告げるために。
3月のメッセージ
『荒れ野に祈りの種を播こう』 牧師 三輪恵愛
主よ、聞いてください。主よ、お赦しください。主よ、耳を傾けて、お計らいください。わたしの神よ、御自身のために、救いを遅らせないでください。あなたの都、あなたの民は、御名をもって呼ばれているのですから。
ダニエル書第9章19節
3月5日の「灰の水曜日」より今年の受難節が始まりました。主イエス・キリストの十字架の御苦しみを想い起こしつつ、その先に来る復活を祝う時を待ち望みます。
灰を被りながら祈る人の姿を旧約聖書のダニエル書に求めました。ダニエルは故国の荒廃を嘆き、灰をかぶり、執りなしの祈りを捧げます。灰は死の象徴であり、燃え尽きた大地、植えても育たない不毛を連想させます。信仰に堅く立ちながら、これらの悲惨が神への背きによって招来されたことを告白します。それがダニエルの世代の罪ではないにもかかわらず!捧げられる執り成しの祈りは、世代を超えた神への立ち帰りの証しです。これは燃え尽きた不毛の大地に「祈りの種」を植えなおす、神の民の再生の営みなのです。
ダニエルは故国の荒廃を「モーセの律法に記されている誓いの呪い(11節)」と言い表します。そして「この恐ろしい災難は、紛れもなくわたしたちを襲いました(13節)」と祈り、イスラエル民族が脱出した折、エジプトを襲った幾つかの災難を想起します。そのうちの一つ「いなごの災い」も大地を不毛にします。群れをなし体の色が黒く変化し(群生相)、あらゆる植物を食い尽くしていくのは、正しくは“いなご”ではなくサバクトビバッタです(前野ウルド浩太郎『孤独なバッタが群れるとき』)。アフリカから中近東、果ては中国に至るまで飛来し、1平方kmあたりの群生は一日に約35,000人分の穀物を食べ尽くします。
バッタが好む食物にソルガム(トウジンビエ)があります。アフリカでは主食です。東日本大震災の直後、福島県小名浜市でソルガムを植える活動に加わりました。放射能を土中から除去する効果を期待されていました。小さな種をピンセットで植え、茎が見えるほどに育てば周辺の農家に配布します。活動を始めた方は福島第一原発を誘致したこと自体が誤りだったと悔いていました。また原発事故後、補償の有無によって故郷に住む人々が分断されたことを心底憤っていました。
14年目の3月11日を迎えます。震災被害のみならず原発事故は放射能被害を引き起こし、人と人を分断しました。大地を真実に不毛にするのはバッタではなく、全てを食い尽くすまで満足できない人の貪欲です。人が神の恵みによってのみ生きていることを忘れる時、不毛の大地はその足元から始まっています。
灰を被って祈るダニエルははじめ自らを「わたし」と言いますが、数々の罪に分け入っていくうちに「わたしたち」と言い直します。不毛な大地に「祈りの種」を一粒ひとつぶ植え続ける営みが広がっていきます。貪欲と分断で荒れ果てた大地に命が再生します。それは主の恵みによってのみ生きる真実の命です。わたしたちも荒れ野に祈りの種を植えるレントを共に過ごそうではありませんか。執り成しの祈りの中で「わたし」は「わたしたち」とされます。その内に罪の苦しみを担われたイエス・キリストの愛が育ちます。
主よ、聞いてください。主よ、お赦しください。主よ、耳を傾けて、お計らいください。わたしの神よ、御自身のために、救いを遅らせないでください。あなたの都、あなたの民は、御名をもって呼ばれているのですから。
ダニエル書第9章19節
3月5日の「灰の水曜日」より今年の受難節が始まりました。主イエス・キリストの十字架の御苦しみを想い起こしつつ、その先に来る復活を祝う時を待ち望みます。
灰を被りながら祈る人の姿を旧約聖書のダニエル書に求めました。ダニエルは故国の荒廃を嘆き、灰をかぶり、執りなしの祈りを捧げます。灰は死の象徴であり、燃え尽きた大地、植えても育たない不毛を連想させます。信仰に堅く立ちながら、これらの悲惨が神への背きによって招来されたことを告白します。それがダニエルの世代の罪ではないにもかかわらず!捧げられる執り成しの祈りは、世代を超えた神への立ち帰りの証しです。これは燃え尽きた不毛の大地に「祈りの種」を植えなおす、神の民の再生の営みなのです。
ダニエルは故国の荒廃を「モーセの律法に記されている誓いの呪い(11節)」と言い表します。そして「この恐ろしい災難は、紛れもなくわたしたちを襲いました(13節)」と祈り、イスラエル民族が脱出した折、エジプトを襲った幾つかの災難を想起します。そのうちの一つ「いなごの災い」も大地を不毛にします。群れをなし体の色が黒く変化し(群生相)、あらゆる植物を食い尽くしていくのは、正しくは“いなご”ではなくサバクトビバッタです(前野ウルド浩太郎『孤独なバッタが群れるとき』)。アフリカから中近東、果ては中国に至るまで飛来し、1平方kmあたりの群生は一日に約35,000人分の穀物を食べ尽くします。
バッタが好む食物にソルガム(トウジンビエ)があります。アフリカでは主食です。東日本大震災の直後、福島県小名浜市でソルガムを植える活動に加わりました。放射能を土中から除去する効果を期待されていました。小さな種をピンセットで植え、茎が見えるほどに育てば周辺の農家に配布します。活動を始めた方は福島第一原発を誘致したこと自体が誤りだったと悔いていました。また原発事故後、補償の有無によって故郷に住む人々が分断されたことを心底憤っていました。
14年目の3月11日を迎えます。震災被害のみならず原発事故は放射能被害を引き起こし、人と人を分断しました。大地を真実に不毛にするのはバッタではなく、全てを食い尽くすまで満足できない人の貪欲です。人が神の恵みによってのみ生きていることを忘れる時、不毛の大地はその足元から始まっています。
灰を被って祈るダニエルははじめ自らを「わたし」と言いますが、数々の罪に分け入っていくうちに「わたしたち」と言い直します。不毛な大地に「祈りの種」を一粒ひとつぶ植え続ける営みが広がっていきます。貪欲と分断で荒れ果てた大地に命が再生します。それは主の恵みによってのみ生きる真実の命です。わたしたちも荒れ野に祈りの種を植えるレントを共に過ごそうではありませんか。執り成しの祈りの中で「わたし」は「わたしたち」とされます。その内に罪の苦しみを担われたイエス・キリストの愛が育ちます。
2月のメッセージ
『わたしもあなたも愛されている』 牧師 三輪恵愛
主に自らをゆだねよ 主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にまかせよ。詩編第37章4-5節
有名タレントが女性とのトラブルの事実を認め、メディア界を揺るがす事態に発展しています。しかし当事者による謝罪の言葉は人々の共感を得るには至っていません。一方で、同じ時期に飲酒による不祥事を起こした若手俳優が徹底的に自らの非を認め、却って理解を集めました。対応の是非を巡ってある評論家が「自己愛の問題」と分析していました。自己愛が過剰に働くと人は保身に走るというのです。
自己愛は人の尊厳を高め自立を促します。「自分を愛するように隣人を愛しなさい(レビ19:18)」と語るとおり聖書は自己愛を否定しません。自分を愛することと他者を愛することは、天秤のように一つにつながっているのです。自己愛が重くなるとその時にとるべき行動の判断を誤り、軽すぎると自分に自信が持てなくなります。バランスが大切なのです。
自己愛は幼児期に無償の愛を受けながら育まれていきます。親が躾を始め、弟妹の登場し、友達との関係が生まれることで自己愛の独り占めは終わりを告げます。他者に愛を向けていくなかで、次第に自己愛のバランスの取り方を身に着けていきます。そして社会に巣立つのですが、多くの人の憧れであるタレントや大会社を束ねる会長や社長のような大人ですら、自分を守ろうとするあまりに大事な一手を間違うことがあります。人間は自己愛のバランスを取るためにいつまでも悩み続ける存在なのかもしれません。
信仰の詩人は「主に自らをゆだねよ」「自分の道を主にまかせよ」と呼びかけます。人生の主役は神であることを認め、自己愛の基準を自分の外に置いてみる。自分と他者を公平に捉えている存在を信頼することで、人間は自己愛のバランスを保てるようになるのではないでしょうか。
併設のすずらん幼稚園に通う子どもたちは、キリスト教保育を通して自分と友達、そしてすべての人のうえに神さまがおられることを学んでいきます。「自分にとって何が一番大切なのか」広く大きな視点から捉えるようになり、自己愛のバランスを保つ経験を積んでいきます。その土台にはキリストの命の言葉が揺るぎなく据えられています。「わたしもあなたも同じように神に愛されている」との真実を、主は教会を用いていつも傍らから語り続けているのです。
自己愛は人の尊厳を高め自立を促します。「自分を愛するように隣人を愛しなさい(レビ19:18)」と語るとおり聖書は自己愛を否定しません。自分を愛することと他者を愛することは、天秤のように一つにつながっているのです。自己愛が重くなるとその時にとるべき行動の判断を誤り、軽すぎると自分に自信が持てなくなります。バランスが大切なのです。
自己愛は幼児期に無償の愛を受けながら育まれていきます。親が躾を始め、弟妹の登場し、友達との関係が生まれることで自己愛の独り占めは終わりを告げます。他者に愛を向けていくなかで、次第に自己愛のバランスの取り方を身に着けていきます。そして社会に巣立つのですが、多くの人の憧れであるタレントや大会社を束ねる会長や社長のような大人ですら、自分を守ろうとするあまりに大事な一手を間違うことがあります。人間は自己愛のバランスを取るためにいつまでも悩み続ける存在なのかもしれません。
信仰の詩人は「主に自らをゆだねよ」「自分の道を主にまかせよ」と呼びかけます。人生の主役は神であることを認め、自己愛の基準を自分の外に置いてみる。自分と他者を公平に捉えている存在を信頼することで、人間は自己愛のバランスを保てるようになるのではないでしょうか。
併設のすずらん幼稚園に通う子どもたちは、キリスト教保育を通して自分と友達、そしてすべての人のうえに神さまがおられることを学んでいきます。「自分にとって何が一番大切なのか」広く大きな視点から捉えるようになり、自己愛のバランスを保つ経験を積んでいきます。その土台にはキリストの命の言葉が揺るぎなく据えられています。「わたしもあなたも同じように神に愛されている」との真実を、主は教会を用いていつも傍らから語り続けているのです。
1月のメッセージ
『交錯する闇と光のなかで』 牧師 三輪恵愛
行く手の闇を光に変え/曲がった道をまっすぐにする。わたしはこれらのことを成就させ/見捨てることはない。
イザヤ書第42章16節(抜粋)
年の始め、受け取った年賀状に綴られた新年の思いを、指でなぞるようにして聞き取ります。励まされ、慰められます。一方で欠礼の知らせも受け取ります。この新年は大学の同期が実父を亡くしたと知らせてくれました。悲しみを思い、時を置かず慰めの文を認めようと思っています。
「明けましておめでとうございます」と、誰にでも気兼ねなく挨拶出来ればどれほど良いでしょうか。けれども「おめでとう」とは言えない境遇の人がいます。年、改まったと雖も、心や身体の疲れ、齢を重ねる不安、将来の不確かさは変わらずに圧し掛かります。そして世界には、闇に置き去りにされている多くの魂がある現実を忘れることは出来ません。これを前に「なんという空しさ、すべてはむなしい」「太陽の下、新しいものは何ひとつない」 (コヘレト1:2,9)と嘆くよりほかないのでしょうか。
あらゆる将来への不確かさは闇のようにわたしたちの心に生まれます。しかしその時こそ、人間の一切は神の御手のうちに置かれていることを知る機会となるのではないでしょうか。神のなさることはわたしたちの思いを超えています。そして神は光だけではなく「闇を創造し(イザヤ45:7)」たもうお方だからです。
ガザ南部ハンユニスで避難生活を送る女性が、イスラエル国による侵攻以来の記録を書き留めている記事に目が留まりました。12編の実話は「すべてが悲劇」だと言います。神の民の歴史を記す聖書もまた人の罪の悲劇を隠しません。その事が却って記述の真実性を裏付けます。人間の立てる計画や予測や予定だけでは、闇を隠すことは出来ないのです。
「行く手の闇を光に変え」るお方は神だと預言者は言います。不確かさの闇のなかで、神の御手が闇を光に変えます。そして「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ(ヨハネ8:17)」と言われるイエス・キリストが、わたしたちが道を歩むときの光となってくださいます。光は道の途上で闇と交錯します。そして闇は光に勝てません。「わたしのうちには闇がありますが、あなたは光であられます(ボンフェッファー)」との祈りが心に響く、わたしたち神の民の新年でありますように。
12月のメッセージ
『真実の恐れは、真実の喜びへ』 牧師 三輪恵愛
彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」
彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」
ルカによる福音書第2章9-11節
教会を挙げて心待ちにしているクリスマスですが、聖書に記されているイエスさまのお生まれを伝える記事は案外少ないのです。福音書はマタイとルカだけで、しかもお生まれのまさにその時の様子を告げるのはルカ第2章の前半で終わります。そして、そのわずかの記事のなか、「救い主がお生まれになった」と直に告げられたのは羊飼いだけでした。
その羊飼いは非常に恐れます。喜びあふれるクリスマスには似つかわしくない感情「恐れ」。夜の闇から襲い掛かるかもしれない夜盗や野獣を恐れたのでしょうか。いいえ、「主の栄光が周りを照らした」から恐れたのです。
これは肉眼で捉えられる光に照らされることと似ています。光に照らされると何事もよく見えます。スポットライトを浴びる機会の多い方々は美しく装います。それとは逆に、不意に光を浴びたとき人は動揺します。光に照らされる準備が出来ていないからです。
主の栄光が照らすのは外見だけではありません。存在の全てです。預言者イザヤは主の臨在に直面し、叫びました。「災いだ、わたしは滅ぼされる(イザヤ6:5)」。主の栄光は心の奥底まで差し込み、隅々まで照らします。羊飼いたちは主の栄光に照らされて、「自分の存在」そのものが光に曝されることを恐れました。
人は自分の存在が曝されることを恐れます。「わたし」が弱く、もろく、日に日に力が減退する存在であることを恐れます。自分が尊重されなくなっていくことを恐れます。そして最も大きな恐れとは、拠り所のない自分を一体誰が救ってくれるのかが解らない恐れです。
しかし羊飼いたちは直ちに聞きました。「恐れるな」との声を。こう語り得ることの出来る人は真実に恐れるべきお方です。そのお方が「恐れるな」と言ってくださる時、恐れからは全く解放されるのです。本当に恐れるべきことを真剣に恐れ、真に神を恐れるものだけが、神のみを恐れなくてよくなるのです。ましてや「あなたのために救い主は生まれた」と告げられ、それが「民全体の大きな喜びとなる」と約束された以上、恐れから解放する方への聖なる「恐れ」は、クリスマスを祝う真実なる喜びに変えられていくでしょう。
教会を挙げて心待ちにしているクリスマスですが、聖書に記されているイエスさまのお生まれを伝える記事は案外少ないのです。福音書はマタイとルカだけで、しかもお生まれのまさにその時の様子を告げるのはルカ第2章の前半で終わります。そして、そのわずかの記事のなか、「救い主がお生まれになった」と直に告げられたのは羊飼いだけでした。
その羊飼いは非常に恐れます。喜びあふれるクリスマスには似つかわしくない感情「恐れ」。夜の闇から襲い掛かるかもしれない夜盗や野獣を恐れたのでしょうか。いいえ、「主の栄光が周りを照らした」から恐れたのです。
これは肉眼で捉えられる光に照らされることと似ています。光に照らされると何事もよく見えます。スポットライトを浴びる機会の多い方々は美しく装います。それとは逆に、不意に光を浴びたとき人は動揺します。光に照らされる準備が出来ていないからです。
主の栄光が照らすのは外見だけではありません。存在の全てです。預言者イザヤは主の臨在に直面し、叫びました。「災いだ、わたしは滅ぼされる(イザヤ6:5)」。主の栄光は心の奥底まで差し込み、隅々まで照らします。羊飼いたちは主の栄光に照らされて、「自分の存在」そのものが光に曝されることを恐れました。
人は自分の存在が曝されることを恐れます。「わたし」が弱く、もろく、日に日に力が減退する存在であることを恐れます。自分が尊重されなくなっていくことを恐れます。そして最も大きな恐れとは、拠り所のない自分を一体誰が救ってくれるのかが解らない恐れです。
しかし羊飼いたちは直ちに聞きました。「恐れるな」との声を。こう語り得ることの出来る人は真実に恐れるべきお方です。そのお方が「恐れるな」と言ってくださる時、恐れからは全く解放されるのです。本当に恐れるべきことを真剣に恐れ、真に神を恐れるものだけが、神のみを恐れなくてよくなるのです。ましてや「あなたのために救い主は生まれた」と告げられ、それが「民全体の大きな喜びとなる」と約束された以上、恐れから解放する方への聖なる「恐れ」は、クリスマスを祝う真実なる喜びに変えられていくでしょう。
11月のメッセージ
『沈黙を照らす光』 牧師 三輪恵愛
高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。
高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。
ルカによる福音書第1章78-79節
これは「ザカリアの預言」と言われる箇所の最後のところです。ラテン語では「ベネディクトゥス=ほめたたえよ」とも呼ばれます。ザカリアが「ほめたたえよ、主なる神を」と言ってこの預言を語り始めことによります。
ザカリアは「あなたの妻エリサベトは男の子を産む」との天使のお告げを信じることができず言葉を奪われますが、ヨハネの誕生と同時に沈黙が解かれます。そこで語られた言葉が「ほめたたえよ」でした。ザカリアは沈黙の間、自分の不信を嘆いたり、言葉を奪われた仕打ちを恨んでいたわけではありません。大きくなっていく妻のお腹を見つめながら、自分の胸のうちにも神さまをほめたたえる言葉を蓄えていたのです。
その預言の結びで、彼は「高い所からあけぼのの光が我らを訪れ」ると語ります。この「訪れ」という言葉は「顧み」とも訳されます。「顧みる」光ですから、降りてくる先がはっきりしています。高い所におられる主が、人びとにまなざしを注ぎ、光となって降りてきてくださるのです。その人びとは「暗闇と死の陰に座して」います。しかし光は照らす人を捉えています。じつはザカリアの名の意味は「主は覚えていてくださる」なのですが、主はしっかりと沈黙のなかに光の訪れを待つその人を覚えており、顧みておられるのです。
世界が「暗闇と死の陰に座している者」であることを今も深い痛みと共に思います。戦火は絶えることがありません。日々の生活が重くのしかかる人々への支援が強く求められているにも関わらず、政治は停滞を続けます。今年も年初から何度も言葉を失くす思いになる一年を過ごしてきました。しかし暗闇のなかに座す人間を顧みる光は射し込んでいるのです。その光の輝きのなかで、御子の聖誕を祝う時が近づいています。
教会の新しい一年はアドヴェントに始まります。高い所からのあけぼのの光に希望を見出す、「ベネディクトゥス」が響く季節です。どれほど闇が暗くとも、死が近くに迫ろうとも、そこにまっすぐに降りてきてくださった主イエス・キリストを思い起こさせます。わたしたちの沈黙を解き、「ほめたたえよ」との賛美を歌わせてくださるのです。
これは「ザカリアの預言」と言われる箇所の最後のところです。ラテン語では「ベネディクトゥス=ほめたたえよ」とも呼ばれます。ザカリアが「ほめたたえよ、主なる神を」と言ってこの預言を語り始めことによります。
ザカリアは「あなたの妻エリサベトは男の子を産む」との天使のお告げを信じることができず言葉を奪われますが、ヨハネの誕生と同時に沈黙が解かれます。そこで語られた言葉が「ほめたたえよ」でした。ザカリアは沈黙の間、自分の不信を嘆いたり、言葉を奪われた仕打ちを恨んでいたわけではありません。大きくなっていく妻のお腹を見つめながら、自分の胸のうちにも神さまをほめたたえる言葉を蓄えていたのです。
その預言の結びで、彼は「高い所からあけぼのの光が我らを訪れ」ると語ります。この「訪れ」という言葉は「顧み」とも訳されます。「顧みる」光ですから、降りてくる先がはっきりしています。高い所におられる主が、人びとにまなざしを注ぎ、光となって降りてきてくださるのです。その人びとは「暗闇と死の陰に座して」います。しかし光は照らす人を捉えています。じつはザカリアの名の意味は「主は覚えていてくださる」なのですが、主はしっかりと沈黙のなかに光の訪れを待つその人を覚えており、顧みておられるのです。
世界が「暗闇と死の陰に座している者」であることを今も深い痛みと共に思います。戦火は絶えることがありません。日々の生活が重くのしかかる人々への支援が強く求められているにも関わらず、政治は停滞を続けます。今年も年初から何度も言葉を失くす思いになる一年を過ごしてきました。しかし暗闇のなかに座す人間を顧みる光は射し込んでいるのです。その光の輝きのなかで、御子の聖誕を祝う時が近づいています。
教会の新しい一年はアドヴェントに始まります。高い所からのあけぼのの光に希望を見出す、「ベネディクトゥス」が響く季節です。どれほど闇が暗くとも、死が近くに迫ろうとも、そこにまっすぐに降りてきてくださった主イエス・キリストを思い起こさせます。わたしたちの沈黙を解き、「ほめたたえよ」との賛美を歌わせてくださるのです。
文章(+イメージ)
10月のメッセージ
『祈りが将来を開く』
牧師 三輪恵愛
どのような時にも、”霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして、根気よく祈り続けなさい。
エフェソの信徒への手紙6章18節
信仰者の家に育った者は仏教との接点が希薄です。補うために様々な書物に触れるなか亀谷凌雲著『仏教からキリストへ』は魅力に溢れていました。蓮如が越中に下向の折り建立した寺院の住職家に出生し、仏教を唯一の宗教と信奉しつつも、やがて日本基督教団新庄教会の牧師に任職される筆者の半生を記したものです。
亀谷師を信仰に導いた一人として活写されるのは金森通綸(つうりん・みちとも)です。第102代首相となった石破茂氏がクリスチャンであることを各紙が触れるなか、曾祖父の金森の名も散見されます。熊本バンドの中心的人物であり、同志社創設の折には新島襄から後継者と目される程に信頼を得ました。その信頼は後年、妻八重の不品行に対する諫言を新島が謝すほどに堅いものでした(伊藤彌彦『襄と八重』他)
金森は一度棄教を宣言するも、再び信仰を得て、救世軍士官として各地で伝道します。同著では札幌から小樽にかけて伝道をしていた金森と亀谷師との出会いが記されます。その頃はまだ住職を継ぐつもりであった亀谷青年を、金森は共に祈ろうと登山に誘います。長い祈りの中に終生忘れられない言葉が語られます。「神さまこの亀谷兄弟は今は敵だけれども、やがては神につかえて大いなる御業ができますように」。「敵とは何事ぞ」と心中怒りを覚えるも、別れしなに金森は「君、これからは何でも祈るのですよ」と諭され、何においても理屈なしに祈るようになります。伝道者を志し東京神学社を卒業するまで行く末を案じて祈り続けた金森に、亀谷師の恩義が尽きることはありませんでした。なお同窓として藤田治芽牧師の名が記されています。
金森はやがてホーリネスに移り中田重治とともに伝道を展開しますが、昭和初期に中田の主唱するリバイバルに疑問を呈し、脱会します。娘の死も理由の一つと言われ、金森は二度にわたり帰属する教派から退く体験をします。
ただその生涯において、キリストを信じるべきか深く思い悩む亀谷師を山へといざない、共に祈り、将来をイエス・キリストに委ねた働きは御心に叶うものとされたのでした。
新しき宰相にも、最善を尽くしてなお将来を主の御手に委ねる祈りが継承されていることを祈り願いたいと思います。
牧師 三輪恵愛
どのような時にも、”霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして、根気よく祈り続けなさい。
エフェソの信徒への手紙6章18節
信仰者の家に育った者は仏教との接点が希薄です。補うために様々な書物に触れるなか亀谷凌雲著『仏教からキリストへ』は魅力に溢れていました。蓮如が越中に下向の折り建立した寺院の住職家に出生し、仏教を唯一の宗教と信奉しつつも、やがて日本基督教団新庄教会の牧師に任職される筆者の半生を記したものです。
亀谷師を信仰に導いた一人として活写されるのは金森通綸(つうりん・みちとも)です。第102代首相となった石破茂氏がクリスチャンであることを各紙が触れるなか、曾祖父の金森の名も散見されます。熊本バンドの中心的人物であり、同志社創設の折には新島襄から後継者と目される程に信頼を得ました。その信頼は後年、妻八重の不品行に対する諫言を新島が謝すほどに堅いものでした(伊藤彌彦『襄と八重』他)
金森は一度棄教を宣言するも、再び信仰を得て、救世軍士官として各地で伝道します。同著では札幌から小樽にかけて伝道をしていた金森と亀谷師との出会いが記されます。その頃はまだ住職を継ぐつもりであった亀谷青年を、金森は共に祈ろうと登山に誘います。長い祈りの中に終生忘れられない言葉が語られます。「神さまこの亀谷兄弟は今は敵だけれども、やがては神につかえて大いなる御業ができますように」。「敵とは何事ぞ」と心中怒りを覚えるも、別れしなに金森は「君、これからは何でも祈るのですよ」と諭され、何においても理屈なしに祈るようになります。伝道者を志し東京神学社を卒業するまで行く末を案じて祈り続けた金森に、亀谷師の恩義が尽きることはありませんでした。なお同窓として藤田治芽牧師の名が記されています。
金森はやがてホーリネスに移り中田重治とともに伝道を展開しますが、昭和初期に中田の主唱するリバイバルに疑問を呈し、脱会します。娘の死も理由の一つと言われ、金森は二度にわたり帰属する教派から退く体験をします。
ただその生涯において、キリストを信じるべきか深く思い悩む亀谷師を山へといざない、共に祈り、将来をイエス・キリストに委ねた働きは御心に叶うものとされたのでした。
新しき宰相にも、最善を尽くしてなお将来を主の御手に委ねる祈りが継承されていることを祈り願いたいと思います。
9月のメッセージ
『生命の重みから響く声』
牧師 三輪恵愛
牧師 三輪恵愛
イエスはお答えになった。『言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす』
(ルカによる福音書19章40節)
上田市街から約十分、山間へと車で上がったところにその建物はあります。グレーの外壁に「戦没画学生慰霊美術館無言館」と記され、ドアを開けばすぐに薄暗い展示室が広がります。窪島誠一郎氏によって1997年に建てられたこの美術館が収蔵する絵画は、すべて戦地で命を落とした画家が描いたものです。一枚一枚に題名と画家の氏名が記されているところは他の美術館と変わりません。そこに数行が加えられています。「1944年ミンダナオ島にて戦死」「1946年舞鶴にて戦病死」「1944年ニューギニア、マダンにて戦死」・・・
窪島氏がNHK刊行の「祈りの画集」を通して戦没画学生の作品に出合った時、すぐにはそれらの価値を量りかねたと言います。ところが、自身も美術を志し出征経験のある野見山暁治氏にそういった絵だけを集めて展示する施設をつくる構想を打ち明けられます。戦争体験のないものには、とくに技術的にすぐれた作品でもなく古びた画学生の習作にしか見えないのではないか、と疑問を呈する窪島氏に、野見山氏は「だけど、ぼくはそんな絵がぜんぶ勢ぞろいしたらふしぎな迫力があるような気がしてならないですよ。とにかくかれらは生きたかったに違いない。生きて絵を描きたかったにちがいない。」窪島氏はそれらの絵を集める場所が「技術のウマイヘタイ(原文のママ)などとはかかわりない、その絵じたいがもっている生命の重さ。・・・何を叫び、何をもとめて死んでいったか、そのせつない声がオーケストラとなって聞こえてくる場所という意味なのだろう」と理解し、絵画を収集する活動を始めていきます(窪島誠一郎『無言館』より)
ある一人の絵が目に留まりました。故郷を描いたものです。何度も習作を重ねた風景かもしれません。木々が立ち並ぶ薄暗い色合いの奥に、一筋の光が差し込みます。召集令状を受け取った後に筆を執った作品でした。言葉にならない、してはならない、けれども生きたいとの叫びがその絵から響いてくるようでした。
「無言館」の静けさに、全存在をカンパスに込める生命の重さが、言葉を超えた声を響かせていました。そこに有限から無限へと、瞬間から永遠とつながる命の言葉が語りつがれていく端緒を見た思いでした。全存在をかけて語るとき、有声無声を問わず、その命の重みを通してこそ語るべき言葉が啓かれるのです。
上田市街から約十分、山間へと車で上がったところにその建物はあります。グレーの外壁に「戦没画学生慰霊美術館無言館」と記され、ドアを開けばすぐに薄暗い展示室が広がります。窪島誠一郎氏によって1997年に建てられたこの美術館が収蔵する絵画は、すべて戦地で命を落とした画家が描いたものです。一枚一枚に題名と画家の氏名が記されているところは他の美術館と変わりません。そこに数行が加えられています。「1944年ミンダナオ島にて戦死」「1946年舞鶴にて戦病死」「1944年ニューギニア、マダンにて戦死」・・・
窪島氏がNHK刊行の「祈りの画集」を通して戦没画学生の作品に出合った時、すぐにはそれらの価値を量りかねたと言います。ところが、自身も美術を志し出征経験のある野見山暁治氏にそういった絵だけを集めて展示する施設をつくる構想を打ち明けられます。戦争体験のないものには、とくに技術的にすぐれた作品でもなく古びた画学生の習作にしか見えないのではないか、と疑問を呈する窪島氏に、野見山氏は「だけど、ぼくはそんな絵がぜんぶ勢ぞろいしたらふしぎな迫力があるような気がしてならないですよ。とにかくかれらは生きたかったに違いない。生きて絵を描きたかったにちがいない。」窪島氏はそれらの絵を集める場所が「技術のウマイヘタイ(原文のママ)などとはかかわりない、その絵じたいがもっている生命の重さ。・・・何を叫び、何をもとめて死んでいったか、そのせつない声がオーケストラとなって聞こえてくる場所という意味なのだろう」と理解し、絵画を収集する活動を始めていきます(窪島誠一郎『無言館』より)
ある一人の絵が目に留まりました。故郷を描いたものです。何度も習作を重ねた風景かもしれません。木々が立ち並ぶ薄暗い色合いの奥に、一筋の光が差し込みます。召集令状を受け取った後に筆を執った作品でした。言葉にならない、してはならない、けれども生きたいとの叫びがその絵から響いてくるようでした。
「無言館」の静けさに、全存在をカンパスに込める生命の重さが、言葉を超えた声を響かせていました。そこに有限から無限へと、瞬間から永遠とつながる命の言葉が語りつがれていく端緒を見た思いでした。全存在をかけて語るとき、有声無声を問わず、その命の重みを通してこそ語るべき言葉が啓かれるのです。
8月のメッセージ
『三度(みたび)許さないとの声をあげるために』
牧師 三輪恵愛
それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(ルカによる福音書9章23節)
6日に広島、9日に長崎、79年目の原爆の日を迎えた本年。平和祈念式典に招来する国を巡り、ロシア、ベラルーシへの招待を見送る点では同様でしたが、イスラエルに対する対応の違いが注目されています。ガザでの虐殺行為を停止しない同国への招待を見送った長崎市にはG7各国が大使を派遣することを取り止めました。原爆を投下した当事者国ならびに同盟国が、被爆地と向き合う機会を軽視した姿勢は国際社会の理解を得難いことと考えます。
広島で被爆し、戦後、牧師となった水野保羅(パウロ)氏は、自身も原爆の影響と思われる左ひざの骨腫に苦しみながら、被爆者団体の代表として核兵器の廃絶を訴えつづけました。当時17歳で消防団の団員だった水野氏は、原爆投下直後、同僚が火だるまになって死に行く様を目の当たりにします。大やけどを負って市内をさまよう学生や兵隊が川辺に群がり息絶えていき、市内中心部から郊外へ、焼けただれた大勢の人々が列をなして逃げ行く様は忘れられない光景となります。
「わたしの十字架」という手記でこう語ります。「被爆者のなかには、アメリカをうらみ、憎んでいる人が少なくない。それが言葉の端々に出てくる。家財、親兄弟、子供たち、友人たち、故郷を失い、健康も台無しにしてしまったのだから無理もない。それでも、わたしはアメリカを赦せと言いたい」と言われます。そして今後核兵器を作ることを絶対に許してはならない。赦しと許しをはっきりと区別したいと言われます。神は人の過去の罪は赦すけれども、現在再び犯そうとしている罪はお許しにならないのです。
広島と長崎がある以上、核兵器の非人道性を知りながら、使用を前提として保有することは罪です。人類全体がこの罪を絶対に許さない、との声をあげるためにも、加害者と被害者、保有国と非保有国との間に線が引かれ、世界が分断したままではなりません。日本も、かつての戦争ではアジア各国に暴力を奮い続けた加害者でした。過去と現在の罪に気付き、他者への愛のために苦しみを負う決意を得るために、赦し合い、同じ立場に立つのです。世界の平和が完成されていく希望は、ご自分の十字架を担いきってすべての罪を赦されたキリストを仰ぐ時に与えられるものなのです。
牧師 三輪恵愛
それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(ルカによる福音書9章23節)
6日に広島、9日に長崎、79年目の原爆の日を迎えた本年。平和祈念式典に招来する国を巡り、ロシア、ベラルーシへの招待を見送る点では同様でしたが、イスラエルに対する対応の違いが注目されています。ガザでの虐殺行為を停止しない同国への招待を見送った長崎市にはG7各国が大使を派遣することを取り止めました。原爆を投下した当事者国ならびに同盟国が、被爆地と向き合う機会を軽視した姿勢は国際社会の理解を得難いことと考えます。
広島で被爆し、戦後、牧師となった水野保羅(パウロ)氏は、自身も原爆の影響と思われる左ひざの骨腫に苦しみながら、被爆者団体の代表として核兵器の廃絶を訴えつづけました。当時17歳で消防団の団員だった水野氏は、原爆投下直後、同僚が火だるまになって死に行く様を目の当たりにします。大やけどを負って市内をさまよう学生や兵隊が川辺に群がり息絶えていき、市内中心部から郊外へ、焼けただれた大勢の人々が列をなして逃げ行く様は忘れられない光景となります。
「わたしの十字架」という手記でこう語ります。「被爆者のなかには、アメリカをうらみ、憎んでいる人が少なくない。それが言葉の端々に出てくる。家財、親兄弟、子供たち、友人たち、故郷を失い、健康も台無しにしてしまったのだから無理もない。それでも、わたしはアメリカを赦せと言いたい」と言われます。そして今後核兵器を作ることを絶対に許してはならない。赦しと許しをはっきりと区別したいと言われます。神は人の過去の罪は赦すけれども、現在再び犯そうとしている罪はお許しにならないのです。
広島と長崎がある以上、核兵器の非人道性を知りながら、使用を前提として保有することは罪です。人類全体がこの罪を絶対に許さない、との声をあげるためにも、加害者と被害者、保有国と非保有国との間に線が引かれ、世界が分断したままではなりません。日本も、かつての戦争ではアジア各国に暴力を奮い続けた加害者でした。過去と現在の罪に気付き、他者への愛のために苦しみを負う決意を得るために、赦し合い、同じ立場に立つのです。世界の平和が完成されていく希望は、ご自分の十字架を担いきってすべての罪を赦されたキリストを仰ぐ時に与えられるものなのです。
7月のメッセージ
『希望の花はひそかに咲く』 牧師 三輪恵愛
「葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことが
「葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことが
おのずと分かる。」
ルカによる福音書21章30節
これはイエスさまが季節について語られた珍しいところです。その前の節では「イチジクの木や、ほかのすべての木をみなさい」と言っておられます。草木の葉が生い茂るようすを見れば、誰でも夏が近づいたことがわかるでしょうというのです。
けれどもこの言葉は世界を脅かす戦争、暴動、大きな地震、疫病、異常気象が次々と起き、口々に「自分こそが救世主だ。わたしのいうことを聞きなさい」という人も大勢現れると予告する文脈のなかで語られたものです。
今年の夏も厳しくなりそうです。大きな要因が地球温暖化です。近年のウクライナ紛争により、アフリカ各国がロシアに代わる石油資源を輸出し、化石燃料への依存は戦争によりかえって拍車がかかっています。化石燃料に依存する資本主義経済の在り方、自国の権益のみを伸張させる自国中心主義、それらが引き起こす戦争が現代社会の在り方の背後に、複雑に絡み合っています。イエスさまの予告はこれらを言い得ておられるようです。
イエスさまはこのあと、こうも言われます。「はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない」ここで時代と訳されている言葉はギリシャ語でゲネアと言い、世代とか、同じような人々とも訳せますし、ひいては家族とも訳すことのできる言葉です。ゲネアが示す時代とは単なる一定期間のことではなく、そのときに一緒に生きる人々がいてこそ時代なのです。そしてイエスさまは続けて「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と言われます。この「わたしの言葉」が、イエスさまが命をかけて人間に伝えようとしている神の言葉です。福音とも言います。福音とは、はっきりと言えば「神さまを愛し、人をわけへだてなく愛して生きる」ことです。その愛とは、将来に世界を残すための愛です。それは生きる希望になりました。
希望を失うと、今だけの楽しみに心が奪われます。希望をもてば将来に届くまなざしで今を見ることができます。
いちじくの花は、面白いことに、その実のなかに隠されたところで咲き、開いていきます。この時代が、今だけの楽しみで終わらないように、これからもずっと続いていくように、決して滅びないキリストの言葉が今も語り継がれていきます。その愛の言葉がわたしたちの心のうちで花開き、将来の希望の実りになるのです。
ルカによる福音書21章30節
これはイエスさまが季節について語られた珍しいところです。その前の節では「イチジクの木や、ほかのすべての木をみなさい」と言っておられます。草木の葉が生い茂るようすを見れば、誰でも夏が近づいたことがわかるでしょうというのです。
けれどもこの言葉は世界を脅かす戦争、暴動、大きな地震、疫病、異常気象が次々と起き、口々に「自分こそが救世主だ。わたしのいうことを聞きなさい」という人も大勢現れると予告する文脈のなかで語られたものです。
今年の夏も厳しくなりそうです。大きな要因が地球温暖化です。近年のウクライナ紛争により、アフリカ各国がロシアに代わる石油資源を輸出し、化石燃料への依存は戦争によりかえって拍車がかかっています。化石燃料に依存する資本主義経済の在り方、自国の権益のみを伸張させる自国中心主義、それらが引き起こす戦争が現代社会の在り方の背後に、複雑に絡み合っています。イエスさまの予告はこれらを言い得ておられるようです。
イエスさまはこのあと、こうも言われます。「はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない」ここで時代と訳されている言葉はギリシャ語でゲネアと言い、世代とか、同じような人々とも訳せますし、ひいては家族とも訳すことのできる言葉です。ゲネアが示す時代とは単なる一定期間のことではなく、そのときに一緒に生きる人々がいてこそ時代なのです。そしてイエスさまは続けて「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と言われます。この「わたしの言葉」が、イエスさまが命をかけて人間に伝えようとしている神の言葉です。福音とも言います。福音とは、はっきりと言えば「神さまを愛し、人をわけへだてなく愛して生きる」ことです。その愛とは、将来に世界を残すための愛です。それは生きる希望になりました。
希望を失うと、今だけの楽しみに心が奪われます。希望をもてば将来に届くまなざしで今を見ることができます。
いちじくの花は、面白いことに、その実のなかに隠されたところで咲き、開いていきます。この時代が、今だけの楽しみで終わらないように、これからもずっと続いていくように、決して滅びないキリストの言葉が今も語り継がれていきます。その愛の言葉がわたしたちの心のうちで花開き、将来の希望の実りになるのです。
6月のメッセージ
『使命がわたしたちを探している』 牧師 三輪恵愛
神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と悦びなのです。 ローマの信徒への手紙14章17節
この6月を過ごすと、当教会に着任して一年になります。短くも感じますし、一年以上経ったような心持ちになることもあります。多様に働きを求められるなかで、為すべきことを見定めながら、落ち着いて日々を過ごしています。
教会が新たに牧師を迎えることを「招聘(しょうへい)」と言います。招く側も招かれる側も招聘に関わる者たちは教会のためにてを尽くしますが、道を整えていくのは主の御心です。関わる者たちが祈りをもって御心に耳を傾け、決断がなされていきます。わたくしは様々なことを熟慮し、当教会からの招聘が御心によるものと信じ、受け入れました。主の御手から、この教会に仕える使命を与えられたのです。
国連の第二代事務次総ダグ・ハマーショルドは1957年から61年までの在任中、中近東やアフリカの動乱収拾のために献身的に任務にあたりました。功績の一つとしてスエズ戦争におけるイスラエルとアラブ諸国の調停が挙げられます。スウェーデンの人で、優れた信仰者でした。コンゴ共和国が激化する動乱の沈静化のために国連に助けを求め、調停に向かう途上、使用機が墜落しハマーショルドは在任のまま死去します。この時携行していた唯一の書物はトマス・ア・ケンピス『イミタチオ・クリスチ(キリストに倣いて)』でした。
この人は「使命の方が私を探しているのであって、われわれのほうが使命を探しているのではない」との言葉を遺しました。
使命に気づかないまま生きるか、あるいは使命を見出してもまた見失う人々に、世界は「それぞれに自分の使命を探して生きよ」と盛んに叫びます、そして使命と自己の栄達とを巧みにすり替えようとしてきます。
けれども神の国は「飲み食い」を目指すところには建ちません。
『主でありたもうわたしたちの神よ、清き心を与えたまえ、あなたを仰ぐことができますために、謙遜な心を与えたまえ、あなたに聞くことができますために。愛する心を与えたまえ、わたしがあなたに仕え、あなたの御許に留まりえますために。』
このハマーショルドの祈りを今、心に留めています。生きておられる主なる神は、わたしどもに御心をお語りになります。ご自分に誠実であり、すべての命を愛し、救ってゆかれるご計画を、わたしたちの使命にしてくださるのです。
神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と悦びなのです。 ローマの信徒への手紙14章17節
この6月を過ごすと、当教会に着任して一年になります。短くも感じますし、一年以上経ったような心持ちになることもあります。多様に働きを求められるなかで、為すべきことを見定めながら、落ち着いて日々を過ごしています。
教会が新たに牧師を迎えることを「招聘(しょうへい)」と言います。招く側も招かれる側も招聘に関わる者たちは教会のためにてを尽くしますが、道を整えていくのは主の御心です。関わる者たちが祈りをもって御心に耳を傾け、決断がなされていきます。わたくしは様々なことを熟慮し、当教会からの招聘が御心によるものと信じ、受け入れました。主の御手から、この教会に仕える使命を与えられたのです。
国連の第二代事務次総ダグ・ハマーショルドは1957年から61年までの在任中、中近東やアフリカの動乱収拾のために献身的に任務にあたりました。功績の一つとしてスエズ戦争におけるイスラエルとアラブ諸国の調停が挙げられます。スウェーデンの人で、優れた信仰者でした。コンゴ共和国が激化する動乱の沈静化のために国連に助けを求め、調停に向かう途上、使用機が墜落しハマーショルドは在任のまま死去します。この時携行していた唯一の書物はトマス・ア・ケンピス『イミタチオ・クリスチ(キリストに倣いて)』でした。
この人は「使命の方が私を探しているのであって、われわれのほうが使命を探しているのではない」との言葉を遺しました。
使命に気づかないまま生きるか、あるいは使命を見出してもまた見失う人々に、世界は「それぞれに自分の使命を探して生きよ」と盛んに叫びます、そして使命と自己の栄達とを巧みにすり替えようとしてきます。
けれども神の国は「飲み食い」を目指すところには建ちません。
『主でありたもうわたしたちの神よ、清き心を与えたまえ、あなたを仰ぐことができますために、謙遜な心を与えたまえ、あなたに聞くことができますために。愛する心を与えたまえ、わたしがあなたに仕え、あなたの御許に留まりえますために。』
このハマーショルドの祈りを今、心に留めています。生きておられる主なる神は、わたしどもに御心をお語りになります。ご自分に誠実であり、すべての命を愛し、救ってゆかれるご計画を、わたしたちの使命にしてくださるのです。
5月のメッセージ
『天-神のいるところに生きる』 牧師 三輪恵愛
ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。 使徒言行録1章11節
「主の昇天日」は復活されたイエスさまが40日間弟子たちとお過ごしになり、天に昇られたことを覚える日です。イースターからの40日目は常に木曜日ですが、その礼拝は直後の日曜日に捧げてきました。
イエスさまは天に昇っていかれました。白い衣を着た人たちが「なぜ天を見上げて立っているのか」と声をかけたとき、ガリラヤの人たちつまり弟子たちはどこを見上げていたのでしょうか。”空”を見上げていたのでしょうか。では空が天なのでしょうか。
現代人は大気の層を空と呼び、大気がなくなる高度100km以上を宇宙と呼びます。古代ヘブライ人は天が幾層にも重なっていること洗練された観測眼で見抜いていました。「天」を意味するシャンマーを単数では用いず、複数形のハッシャマーイームで「天」を示します。正しくは「天の天」です。ソロモン王は「天の天もあなたをお納めすることができません(列上8:27)」と祈りました。そして「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す(詩19:2)と歌われるとおり、空もまた神の被造物に過ぎないのです。
近年逝去した神学者にして牧師のデトレフ・ブロックが見事な祈りの言葉を遺しています。「あなたが帰りゆかれる御国は、それは遥かな高い彼方のことではありません。あなたのものである天の御国はあなたのご支配のことであり、それは近くにあるのです。主イエス・キリスト、わたしたちの肝に銘じてください、神は天にいるのではなく、神のいるところが、そこが天であることを。」
イエス・キリストが地上に降り立ち「天の国は近づいた」と福音を告げ始めたとき天は裂けて聖霊が降りました。そして十字架に挙げられたとき、神殿の天幕は裂けました。これらも共に肝に銘じようではありませんか。主なる神のご支配は地上にあり、そこが天であり、そこに神がおられるのです。そしてわたしたちは天の国に住まう者とされています。
使徒信条は「そこから来て、生きている者と死んでいる者とを審かれます」と告白します。来臨の時代はすでに始まっており、一切のものはキリストの御手にあります。この告白は神のご支配の約束が必ず天において成就するとの歓喜の宣言なのです。
ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。 使徒言行録1章11節
「主の昇天日」は復活されたイエスさまが40日間弟子たちとお過ごしになり、天に昇られたことを覚える日です。イースターからの40日目は常に木曜日ですが、その礼拝は直後の日曜日に捧げてきました。
イエスさまは天に昇っていかれました。白い衣を着た人たちが「なぜ天を見上げて立っているのか」と声をかけたとき、ガリラヤの人たちつまり弟子たちはどこを見上げていたのでしょうか。”空”を見上げていたのでしょうか。では空が天なのでしょうか。
現代人は大気の層を空と呼び、大気がなくなる高度100km以上を宇宙と呼びます。古代ヘブライ人は天が幾層にも重なっていること洗練された観測眼で見抜いていました。「天」を意味するシャンマーを単数では用いず、複数形のハッシャマーイームで「天」を示します。正しくは「天の天」です。ソロモン王は「天の天もあなたをお納めすることができません(列上8:27)」と祈りました。そして「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す(詩19:2)と歌われるとおり、空もまた神の被造物に過ぎないのです。
近年逝去した神学者にして牧師のデトレフ・ブロックが見事な祈りの言葉を遺しています。「あなたが帰りゆかれる御国は、それは遥かな高い彼方のことではありません。あなたのものである天の御国はあなたのご支配のことであり、それは近くにあるのです。主イエス・キリスト、わたしたちの肝に銘じてください、神は天にいるのではなく、神のいるところが、そこが天であることを。」
イエス・キリストが地上に降り立ち「天の国は近づいた」と福音を告げ始めたとき天は裂けて聖霊が降りました。そして十字架に挙げられたとき、神殿の天幕は裂けました。これらも共に肝に銘じようではありませんか。主なる神のご支配は地上にあり、そこが天であり、そこに神がおられるのです。そしてわたしたちは天の国に住まう者とされています。
使徒信条は「そこから来て、生きている者と死んでいる者とを審かれます」と告白します。来臨の時代はすでに始まっており、一切のものはキリストの御手にあります。この告白は神のご支配の約束が必ず天において成就するとの歓喜の宣言なのです。
4月のメッセージ
『喜びなさい』 牧師 三輪恵愛
すると、イエスが行く手に立っていて「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。(マタイによる福音書28章9節)
「おはよう」、これが十字架の上で釘打たれ、苦しみぬいて死なれた方の、よみがえって初めて口にされた言葉なのです。原典から忠実に訳す英語の聖書では「Rejoice!(喜びなさい)」です。イエスさまが二人のマリアの前に立って語られたのは、「喜びなさい」というお命じだったのです。
よみがえりとは「死を乗り越えてきた」ということです。死を乗り越えた人とはどこかが違う。どっしりと腰を落ち着けている。死との関係性で言えば「もう思い残すことの無い生き方」をしている人がいるとして、ではこの「喜びなさい」とは死を達観したような人に与えられるものなのでしょうか。それならばこの喜びはごく限られた人しか体験できないものとなるでしょう。墓を見に行った二人のマリアたちがそもそもそんな人々ではありません。
達観しているならば朝早く人目を避けて墓に来ることはしないでしょう。しかしこの人たちは人目を避けて恐れている、ということは死を恐れているということです。
そこに「喜びなさい」と主が命じておられるのです。それは「思い残すことも、思い煩うことも、未解決の問題も自分の生活に山ほど残っており、過去の生活の失敗も償いきれていない。たとえそうだったとしても、なおそれらを主に全部委ねて、主に全部赦されて、主に全部解決されていく道があると信じ「喜んで生きていきなさい」というのです。そのとき初めて「思い残すことのない生活」が始まるのです。よみがえりの朝に告げられた「喜びなさい」は空疎な挨拶ではないのです。キリストご自身がわたしたちの重荷を背負い、罪を担って十字架で死んでくださった。そしてよみがえってくださった。そこで罪も死も恐れることのない神の恵みのうちに、しっかりと守られた生活をしてくことができるのです。思い残していること、悔いていることはたくさんある。これからも増えるかもしれない。けれどもキリストの十字架と復活によって、本当に赦されたことを信じる生活は喜びなのです。この喜びは一人で喜ぶことはできないのです。行って、誰かに主のよみがえりを告げることで喜べる喜びです。そのとき本当に、人にすべてを分かち合える生活をしていくことができるのです。
「おはよう」、これが十字架の上で釘打たれ、苦しみぬいて死なれた方の、よみがえって初めて口にされた言葉なのです。原典から忠実に訳す英語の聖書では「Rejoice!(喜びなさい)」です。イエスさまが二人のマリアの前に立って語られたのは、「喜びなさい」というお命じだったのです。
よみがえりとは「死を乗り越えてきた」ということです。死を乗り越えた人とはどこかが違う。どっしりと腰を落ち着けている。死との関係性で言えば「もう思い残すことの無い生き方」をしている人がいるとして、ではこの「喜びなさい」とは死を達観したような人に与えられるものなのでしょうか。それならばこの喜びはごく限られた人しか体験できないものとなるでしょう。墓を見に行った二人のマリアたちがそもそもそんな人々ではありません。
達観しているならば朝早く人目を避けて墓に来ることはしないでしょう。しかしこの人たちは人目を避けて恐れている、ということは死を恐れているということです。
そこに「喜びなさい」と主が命じておられるのです。それは「思い残すことも、思い煩うことも、未解決の問題も自分の生活に山ほど残っており、過去の生活の失敗も償いきれていない。たとえそうだったとしても、なおそれらを主に全部委ねて、主に全部赦されて、主に全部解決されていく道があると信じ「喜んで生きていきなさい」というのです。そのとき初めて「思い残すことのない生活」が始まるのです。よみがえりの朝に告げられた「喜びなさい」は空疎な挨拶ではないのです。キリストご自身がわたしたちの重荷を背負い、罪を担って十字架で死んでくださった。そしてよみがえってくださった。そこで罪も死も恐れることのない神の恵みのうちに、しっかりと守られた生活をしてくことができるのです。思い残していること、悔いていることはたくさんある。これからも増えるかもしれない。けれどもキリストの十字架と復活によって、本当に赦されたことを信じる生活は喜びなのです。この喜びは一人で喜ぶことはできないのです。行って、誰かに主のよみがえりを告げることで喜べる喜びです。そのとき本当に、人にすべてを分かち合える生活をしていくことができるのです。
3月のメッセージ
『今日もあなたと
共に生きる』
牧師 三輪恵愛
するとイエスは、
するとイエスは、
「はっきり言っておくが、
あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」
と言われた。
(ルカによる福音書23章43節)
他教派と比べてプロテスタントの教会に十字架の装飾が少ないのは、目に見える十字架に頼るのを避けるため、と言われます。西宮中央教会の講壇の背面に掲げられた十字架は、ここぞというところにあるだけに、存在の力があります。
十字架とは何でしょうか。イエス・キリストが息絶えたところです。そこに死があります。教会が十字架を掲げ続けてきたのは、十字架を仰ぐものが自分自身の死え忘れず、繰り返し思い起こすことを大事にしてきたからです。
イエス様の十字架のとき、最も近くにいたのは二人の罪人でした。片方が「神の子ならばわたしたちを救え、そしてお前自身も救え」と罵ります。他の人たちも「神の子ならば自分自身を助てみろ」と蔑みます。このような侮辱の言葉は今も聞こえてきます。「神は神らしく崇敬されろ」「救い主は救い主らしく世を救え」「教会は教会らしく希望を語れ」信仰の対象が自分の思い通りに力を振るわないとき、期待は呪いの言葉に変わります。神に希望を置かなくなったとき、神への侮辱の言葉は人の心の中にすっと忍び込むのです。
もう片方の十字架に架けられた人は、侮辱をたしなめ、そして言います。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」この人は自分に迫る死からは逃れようがないことを弁えています。
そして目の前の人、ナザレのイエスは、本来はそこにいるべきではないことも気づいています。そこで死による滅びから免れるために主イエスに祈り願ったのです。
主は応えられました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒のい楽園にいる」「今日」。今日とは今です。十字架の上でわたしと共に生きて、言葉を交わしたあなたはもう今、楽園にいると主は宣言されます。死が迫りくる中でイエスを主と信じ、ともに居てくださることを祈り願うとき、そこは楽園だと主ははっきり言ってくださるのです。「楽園」とは場所のことではありません。「関係」です。交わりです。イエス・キリストと応答する交わりの中で、この人は十字架の上にある楽園に招かれました。たとえ今心臓が止まり息絶えようとも、十字架を信じて仰ぐ者は誰でもキリストとの交わりにおいて生きる、という真実が告げられたのです。
(ルカによる福音書23章43節)
他教派と比べてプロテスタントの教会に十字架の装飾が少ないのは、目に見える十字架に頼るのを避けるため、と言われます。西宮中央教会の講壇の背面に掲げられた十字架は、ここぞというところにあるだけに、存在の力があります。
十字架とは何でしょうか。イエス・キリストが息絶えたところです。そこに死があります。教会が十字架を掲げ続けてきたのは、十字架を仰ぐものが自分自身の死え忘れず、繰り返し思い起こすことを大事にしてきたからです。
イエス様の十字架のとき、最も近くにいたのは二人の罪人でした。片方が「神の子ならばわたしたちを救え、そしてお前自身も救え」と罵ります。他の人たちも「神の子ならば自分自身を助てみろ」と蔑みます。このような侮辱の言葉は今も聞こえてきます。「神は神らしく崇敬されろ」「救い主は救い主らしく世を救え」「教会は教会らしく希望を語れ」信仰の対象が自分の思い通りに力を振るわないとき、期待は呪いの言葉に変わります。神に希望を置かなくなったとき、神への侮辱の言葉は人の心の中にすっと忍び込むのです。
もう片方の十字架に架けられた人は、侮辱をたしなめ、そして言います。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」この人は自分に迫る死からは逃れようがないことを弁えています。
そして目の前の人、ナザレのイエスは、本来はそこにいるべきではないことも気づいています。そこで死による滅びから免れるために主イエスに祈り願ったのです。
主は応えられました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒のい楽園にいる」「今日」。今日とは今です。十字架の上でわたしと共に生きて、言葉を交わしたあなたはもう今、楽園にいると主は宣言されます。死が迫りくる中でイエスを主と信じ、ともに居てくださることを祈り願うとき、そこは楽園だと主ははっきり言ってくださるのです。「楽園」とは場所のことではありません。「関係」です。交わりです。イエス・キリストと応答する交わりの中で、この人は十字架の上にある楽園に招かれました。たとえ今心臓が止まり息絶えようとも、十字架を信じて仰ぐ者は誰でもキリストとの交わりにおいて生きる、という真実が告げられたのです。
2月のメッセージ
『十字架を
心に刻みこんで』
牧師 三輪恵愛
「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか。」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。(マタイによる福音書26章15節)
今年は2月14日が「灰の水曜日」で、次の主日より受難節の礼拝を捧げます。教会によっては前年の「棕櫚の主日」で用いた棕櫚の枝を燃やし、その灰と聖油を混ぜて額に十字架を描きます。そして主の御苦しみを心に刻む受難節を歩み始めます。
教会は、イエスさまが十字架を見据えて歩み始められた分岐点として、受難予告や、エルサレムに顔をお向けになるお姿を心に留めてきました。銀貨三十枚で十字架刑へと身柄を売り渡された瞬間に焦点を当てれば、弟子ユダの裏切りも分岐点の一つです。ユダヤ最高議会の議員たちの言い値にユダは手を打ちました。その瞬間、ユダの心の中でイエスさまの存在価値は銀貨三十枚の値打ちになったのです。銀貨三十枚。たしかに大金です。しかしこの時彼が売り渡したものは、それまでイエスさまと共に歩んできたすべての時、イエスさまが語られたすべてのみ言葉、イエスさまが注いでくださった愛のすべてでした。天の国に生きる喜びに招いてくださった方のすべてを銀貨三十枚で手放してしまったのです。ここぞという時に自分の価値観で行くべき道を定め、このお方の尊い値打ちを銀貨三十枚どころかそれにも満たないものと引き換え、手放してしまうことがあります。イエスさまを手放したほうが価値のある生き方ができると、何度も思ってしまうのです。こういった背きの悲しみこそ受難節に思いおこされていくものです。
けれどもユダの裏切りは十字架の救いの成就のためには、避けることのできないものでした。主は売り渡されることで、わたしたちの存在のすべてをご自分の命によって買い戻してくださったのです。このお方は神の命という量り知ることのできない恵みで、主を愛しぬくことのできないわたしたちの貧しさを満たしてくださるのです。
「灰の水曜日」に額に十字架を描くのは「灰のような小さな罪もかき集めて十字架のしるしとする」という意味があります。それは「あなたはこの十字架によって買い取られた」というキリストの愛のしるしです。十字架を額に描かずとも、心に留めることはできます。イエスさまとの交わりをこの世の価値で売り渡してしまう悲しみを、十字架による救いの証しに変えてくださる愛が、深く心に刻まれる受難節となりますように。
牧師 三輪恵愛
「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか。」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。(マタイによる福音書26章15節)
今年は2月14日が「灰の水曜日」で、次の主日より受難節の礼拝を捧げます。教会によっては前年の「棕櫚の主日」で用いた棕櫚の枝を燃やし、その灰と聖油を混ぜて額に十字架を描きます。そして主の御苦しみを心に刻む受難節を歩み始めます。
教会は、イエスさまが十字架を見据えて歩み始められた分岐点として、受難予告や、エルサレムに顔をお向けになるお姿を心に留めてきました。銀貨三十枚で十字架刑へと身柄を売り渡された瞬間に焦点を当てれば、弟子ユダの裏切りも分岐点の一つです。ユダヤ最高議会の議員たちの言い値にユダは手を打ちました。その瞬間、ユダの心の中でイエスさまの存在価値は銀貨三十枚の値打ちになったのです。銀貨三十枚。たしかに大金です。しかしこの時彼が売り渡したものは、それまでイエスさまと共に歩んできたすべての時、イエスさまが語られたすべてのみ言葉、イエスさまが注いでくださった愛のすべてでした。天の国に生きる喜びに招いてくださった方のすべてを銀貨三十枚で手放してしまったのです。ここぞという時に自分の価値観で行くべき道を定め、このお方の尊い値打ちを銀貨三十枚どころかそれにも満たないものと引き換え、手放してしまうことがあります。イエスさまを手放したほうが価値のある生き方ができると、何度も思ってしまうのです。こういった背きの悲しみこそ受難節に思いおこされていくものです。
けれどもユダの裏切りは十字架の救いの成就のためには、避けることのできないものでした。主は売り渡されることで、わたしたちの存在のすべてをご自分の命によって買い戻してくださったのです。このお方は神の命という量り知ることのできない恵みで、主を愛しぬくことのできないわたしたちの貧しさを満たしてくださるのです。
「灰の水曜日」に額に十字架を描くのは「灰のような小さな罪もかき集めて十字架のしるしとする」という意味があります。それは「あなたはこの十字架によって買い取られた」というキリストの愛のしるしです。十字架を額に描かずとも、心に留めることはできます。イエスさまとの交わりをこの世の価値で売り渡してしまう悲しみを、十字架による救いの証しに変えてくださる愛が、深く心に刻まれる受難節となりますように。
1月のメッセージ
『いつまでも忘れずにいること』
牧師 三輪恵愛
「あなたの貧しい人々の命を永遠に忘れないで去らないでください」
(詩編74編19節)
「見に来い。神戸で地震だ」担任の大声にわたしたちはテレビの前に集まりました。阪神高速道路の高架が横倒しになり、火の手が迫る信じがたい光景が映っていました。1995年1月17日、泊りがけの冬季講習の最中でした。
「何か出来ることは・・・」しかし長崎市に住む高校2年生のわたしたちは押し黙るばかりでした。心中を察し、担任が諭してくれました。「いつか傷ついた人のために出来ることを考え行動に起こせるように、今すべきことをしっかりやりなさい。」
震度7を観測した阪神淡路大震災の被害は死者6,434名、全壊104,906戸に上りました。そして数字には表れない多くの心の傷を遺しました。「もし死んでもべつにくいはないから、しにたかったな。そうしたら、そのかわりにお父さんも、お母さんも助かったかもしれない・・。ごめんなさい」『黒い虹―阪神大震災遺児の一年』に綴られている言葉です。精神科医の安克昌氏は「生き残ったことについての罪悪感、自責感を抱いていることに強い印象を受ける。(中略)家族同士ですらコミュニケーションがうまくいかなくなることがある。ましてや他人との間に溝を感じやすいのは当然であろう」と述べ、被災地では善意の活動も拒絶されるケースが多々あると指摘します。
2011年3月11日、埼玉で東日本大震災を経験したわたしは釜石市、南相馬氏、小名浜市、仙台市と被災地に入り様々な支援活動に加わりました。担任が諭してくれたように、出来ることを考え行動に起こせる者となっていました。
そこでさらに大切なことを学びました。2016年夏、仲間と共に名取市の津波に水没した耕地の支援に入ったとき、迎えてくれた年配の農家の方がこう言って労ってくれました。「作業してくれることだけでないんだ。忘れないでいてくれることが嬉しい。」心の傷を癒すためには忍耐と時間が必要です。「忘れずにいること」こそが最も求められ、真実の癒しに通じる唯一の道なのです。2024年1月1日、奥能登地震が起きました。甚大な被害が刻一刻と伝えられ、支援の働きは始まっています。「何か今、出来ること」のうえに「いつまでも忘れずにいること」を加え、傷ついた人の命へ遣わしてくださる主を仰ぎ、御心を祈り求めます。
この方こそ一人一人の傷ついた命をそして癒しの業を決してお忘れにならない主であることに信頼して。
牧師 三輪恵愛
「あなたの貧しい人々の命を永遠に忘れないで去らないでください」
(詩編74編19節)
「見に来い。神戸で地震だ」担任の大声にわたしたちはテレビの前に集まりました。阪神高速道路の高架が横倒しになり、火の手が迫る信じがたい光景が映っていました。1995年1月17日、泊りがけの冬季講習の最中でした。
「何か出来ることは・・・」しかし長崎市に住む高校2年生のわたしたちは押し黙るばかりでした。心中を察し、担任が諭してくれました。「いつか傷ついた人のために出来ることを考え行動に起こせるように、今すべきことをしっかりやりなさい。」
震度7を観測した阪神淡路大震災の被害は死者6,434名、全壊104,906戸に上りました。そして数字には表れない多くの心の傷を遺しました。「もし死んでもべつにくいはないから、しにたかったな。そうしたら、そのかわりにお父さんも、お母さんも助かったかもしれない・・。ごめんなさい」『黒い虹―阪神大震災遺児の一年』に綴られている言葉です。精神科医の安克昌氏は「生き残ったことについての罪悪感、自責感を抱いていることに強い印象を受ける。(中略)家族同士ですらコミュニケーションがうまくいかなくなることがある。ましてや他人との間に溝を感じやすいのは当然であろう」と述べ、被災地では善意の活動も拒絶されるケースが多々あると指摘します。
2011年3月11日、埼玉で東日本大震災を経験したわたしは釜石市、南相馬氏、小名浜市、仙台市と被災地に入り様々な支援活動に加わりました。担任が諭してくれたように、出来ることを考え行動に起こせる者となっていました。
そこでさらに大切なことを学びました。2016年夏、仲間と共に名取市の津波に水没した耕地の支援に入ったとき、迎えてくれた年配の農家の方がこう言って労ってくれました。「作業してくれることだけでないんだ。忘れないでいてくれることが嬉しい。」心の傷を癒すためには忍耐と時間が必要です。「忘れずにいること」こそが最も求められ、真実の癒しに通じる唯一の道なのです。2024年1月1日、奥能登地震が起きました。甚大な被害が刻一刻と伝えられ、支援の働きは始まっています。「何か今、出来ること」のうえに「いつまでも忘れずにいること」を加え、傷ついた人の命へ遣わしてくださる主を仰ぎ、御心を祈り求めます。
この方こそ一人一人の傷ついた命をそして癒しの業を決してお忘れにならない主であることに信頼して。
12月のメッセージ
『人となってくださった神さまを祝おう』
牧師 三輪 恵愛
「わたしは来て、あなたのただ中に住まう」
牧師 三輪 恵愛
「わたしは来て、あなたのただ中に住まう」
(ゼカリヤ書2章14節)
「本日は耶蘇(ヤソ、イエスのこと)降誕なり。教会堂にては祈祷を行い・・・家々にては種々の贈物をなし・・・クリスマス樹を設けて・・・児童等と共に相嬉戯してサンタクロースの齎らし来る幸福を亨けて遊ぶ・・・」1906年12月25日の朝日新聞の記事ですが、100年余年を経てもクリスマスには同じような風情が漂います。
「教会では本当のクリスマスをお祝している」と言われることがあります。ツリーやサンタクロース、プレゼントより大切なこと、それは神の子イエス様が人としてお生まれになったことを祝うことです。
神さまにとって、人となることは喜ばしいことなのでしょうか。永遠におられ、力があり、なんでも見通されるのが神さまです。一方では人間は、心も体も傷つき、病を得ます。第一、命を失います。神さまにとって人になることいはなんの利益もありません。それなのに、神さまは人となられるのです。
降誕の地ベツレヘムはイスラエルのヨルダン川西岸地区に含まれています。初めて訪ねたとき、そこが貧しい土地、争いの傷跡が深い場所だとすぐに解りました。神さまはこのような人と人とが相争い、傷つけあうような所の戸を叩き、訪ねるために人となられたことを刻みこんだことを思い出します。
上の記事に先立つこと10年前のクリスマスにこのような説教が語られました。
「耶蘇基督(イエス・キリスト)は自ら完全無垢の人なるのみならず、我らの如き微弱なる者をも容れて、その活力に与るべき伴侶たらしめんとす。主耶蘇基督は恵みて元気活力を備えてベツレヘムに生まれたり(植村正久『クリスマスは何を教ふるや』1896年12月)」
心も体も傷つき、病を得て、憎しみあい、失われる命を生きる人間のただ中に「活力を与えるために」。クリスマスの喜びは、神さまが人間の貧しい時、苦しむとき、悲しい時、弱さが極まる処を訪ね、そこで生きてくださるために人となられたところにあるのです。
イエス・キリストの誕生は、人を訪ねてそのただ中に生きる神の命の現れです。教会にいつもより人が訪ねて来られるクリスマス。訪ねていくことの大切さも忘れません。イエス様のお生まれを喜んだそのあとはでかけて訪ねていく番です。2023年の今年も、教会は神さまが人となり訪ねてくださる喜びを胸のとどめて、本当のクリスマスをお祝いしようとしています。
「本日は耶蘇(ヤソ、イエスのこと)降誕なり。教会堂にては祈祷を行い・・・家々にては種々の贈物をなし・・・クリスマス樹を設けて・・・児童等と共に相嬉戯してサンタクロースの齎らし来る幸福を亨けて遊ぶ・・・」1906年12月25日の朝日新聞の記事ですが、100年余年を経てもクリスマスには同じような風情が漂います。
「教会では本当のクリスマスをお祝している」と言われることがあります。ツリーやサンタクロース、プレゼントより大切なこと、それは神の子イエス様が人としてお生まれになったことを祝うことです。
神さまにとって、人となることは喜ばしいことなのでしょうか。永遠におられ、力があり、なんでも見通されるのが神さまです。一方では人間は、心も体も傷つき、病を得ます。第一、命を失います。神さまにとって人になることいはなんの利益もありません。それなのに、神さまは人となられるのです。
降誕の地ベツレヘムはイスラエルのヨルダン川西岸地区に含まれています。初めて訪ねたとき、そこが貧しい土地、争いの傷跡が深い場所だとすぐに解りました。神さまはこのような人と人とが相争い、傷つけあうような所の戸を叩き、訪ねるために人となられたことを刻みこんだことを思い出します。
上の記事に先立つこと10年前のクリスマスにこのような説教が語られました。
「耶蘇基督(イエス・キリスト)は自ら完全無垢の人なるのみならず、我らの如き微弱なる者をも容れて、その活力に与るべき伴侶たらしめんとす。主耶蘇基督は恵みて元気活力を備えてベツレヘムに生まれたり(植村正久『クリスマスは何を教ふるや』1896年12月)」
心も体も傷つき、病を得て、憎しみあい、失われる命を生きる人間のただ中に「活力を与えるために」。クリスマスの喜びは、神さまが人間の貧しい時、苦しむとき、悲しい時、弱さが極まる処を訪ね、そこで生きてくださるために人となられたところにあるのです。
イエス・キリストの誕生は、人を訪ねてそのただ中に生きる神の命の現れです。教会にいつもより人が訪ねて来られるクリスマス。訪ねていくことの大切さも忘れません。イエス様のお生まれを喜んだそのあとはでかけて訪ねていく番です。2023年の今年も、教会は神さまが人となり訪ねてくださる喜びを胸のとどめて、本当のクリスマスをお祝いしようとしています。
11月のメッセージ
『主の御名による神の国」 牧師 三輪恵愛
「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って”天の国は近づいた”と宣べ伝えなさい」(マタイによる福音書10章6節)
ガザ地区の武力衝突は1か月の間に犠牲者1万人を超し、その4割強は子どもです。イスラエルは人質解放を大義とし「ハマス殉滅のためならば市民の犠牲もやむを得ない」と主張しますが、医療施設や難民キャンプを攻撃する軍事行動に世界から厳しい視線が向けられるようになりました。
当初欧米各国の反応が緩慢だった要因にパレスチナの複雑な歴史背景があります。第一次大戦中、オスマン帝国と敵対する英国はアラブ人に国家を建設するよう工作する一方、ユダヤ人からの政治資金の見返りに国家の建設を後押ししました。第二次大戦後、ホロコーストの経験が、国際連合の「同情的な」分割統治を採択させ、イスラエル建国が宣言されます。これを不服とするアラブ諸国との間に四度の中東戦争が起き、イスラエルによる占領地を自治区としたのが、ガザ地区とヨルダン川西岸地区です。2007年にハマスに実行支配されたガザ地区をイスラエルは高い壁で囲ってインフラを厳しく統制、「天井の無い監獄」と呼ばれるようになりました。
現地の惨状を伝える報道は、度々「ユダヤ教とイスラム教とキリスト教は同じ神を崇める宗教」と解説します。沈痛な重いで聞きながら、無辜(むこ)の市民の命を奪い続ける国イスラエルと、聖書で約2700回記される「イスラエル」の同一性を問わずにおれません。
多くの事を考えるなか、二つのことを記します。一つは、イスラエルが御言葉に背くことがあれば神さまは厳しく裁かれたことです。偶像や他国にひれ伏し、自らをも「神」としたとき「主はこれを聞いて憤られた。火はヤコブの中に燃え上がり怒りはイスラエルの中に燃えさかりました(詩編78:21)」それは神さまの愛を実現するために苦難から導き出しお建てになった国が真実のイスラエルだからです。もう一つ、イエスさまは真実のイスラエルが御自分の名によって到来したと宣言されました。「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って”天の国は近づいた”と宣べ伝えなさい(マタイ10:6)」と弟子たちを遣わされたのは、神の国が建てられてもなお虐げられ逃げ惑う人々がおり、そこで愛の業を行うためです。
これらのことを心に留め祈ります。「主よ、争いを止められないわたしたちを憐れみ、憎しみの炎を消す慰めの、み言葉を聞かせてください。教会が真実のイスラエルとなり、失われかけている命のために救いの手を伸ばせますように。」
10月のメッセージ
『主の御手に引かれて』-神学校編-
牧師 三輪恵愛
「・・・子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いてきなさい」(マタイによる福音書21:2)
会社勤めが落ち着き始めた2005年、上司が37歳で突如死去しました。熱心に実務を教えてくださり、前晩まで溌剌と勤務していましたが次の日、自宅の床のなかで息を引き取っていました。深い悲嘆が、与えられた命をどこに用いるか改めて考えさせる契機を招きました。
先立つ2003年、北海道中会青年部の「神学校ツアー」に参加しました。牧会者を育成するために整えられた祈りと学びの空間に深い感銘を受けました。この体験が「命をどこに用いるべきか」との問いとともに何度も思い起こされるようになり、次第に牧師への献身を考えるようになっていきました。
2010年春、辞表を出し、小会には規定の推薦状を願い出ました。そこに献身の志も添えたのですが、牧師からこう言われました。
「牧師は人間の意思の強さでなるのではなく、ただ神の御業のみ。罪びとが、み言葉を語ることへの畏れがここからは聞こえてこない。このままでは推薦できない」。「どんな困難にも自分で打ち克つ」強固な意志を余さず伝えたと確信していただけに衝撃でした。長老方の執り成しにより推薦は得ましたが、牧師の言葉は胸に突き刺さったままでした。
受験合格を経て入学し、学業が始まりました。ところが第1学年の半ばを過ぎ、信徒の頃の人間関係に起因する困難な問題が神学校に報告され、学業を続ける是非を改めて問われることとなりました。その件は、社会通念上は既に解決しているものでした。しかし、それが牧師の危惧された「自分の力で困難を乗り越えようとする」罪が具現化したものでした。罪びとに過ぎないものが神のみ言葉を語り、教会に仕えることの真意を厳しく問われることとなりました。悩みぬいた末に第2学年から休学し、栃木県にあるキリスト教主義学校アジア学院で住み込みのボランティアとして労働することとなりました。アジア、アフリカ、中南米の農村部から集う学生や欧米のボランティアたちとの1年半にわたる共同生活の中で、共同体を支えるみ言葉の力を魂に刻むこととなりました。どれほど「自分で困難に打ち克つ」強さを持ったとしても、先立つものが自我であれば真実に人に仕えることはできず、しかし示された処で、なお人に仕えるものとされたとき、十字架の主が御業のために人を用いられる真理を示されることとなりました。
第2学年の途中から復学、2017年春に神学校を卒業、岐阜教会に遣わされることとなりました。3回に渡りお伝えした身上はこれにて一度筆をおきます。
牧師 三輪恵愛
「・・・子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いてきなさい」(マタイによる福音書21:2)
会社勤めが落ち着き始めた2005年、上司が37歳で突如死去しました。熱心に実務を教えてくださり、前晩まで溌剌と勤務していましたが次の日、自宅の床のなかで息を引き取っていました。深い悲嘆が、与えられた命をどこに用いるか改めて考えさせる契機を招きました。
先立つ2003年、北海道中会青年部の「神学校ツアー」に参加しました。牧会者を育成するために整えられた祈りと学びの空間に深い感銘を受けました。この体験が「命をどこに用いるべきか」との問いとともに何度も思い起こされるようになり、次第に牧師への献身を考えるようになっていきました。
2010年春、辞表を出し、小会には規定の推薦状を願い出ました。そこに献身の志も添えたのですが、牧師からこう言われました。
「牧師は人間の意思の強さでなるのではなく、ただ神の御業のみ。罪びとが、み言葉を語ることへの畏れがここからは聞こえてこない。このままでは推薦できない」。「どんな困難にも自分で打ち克つ」強固な意志を余さず伝えたと確信していただけに衝撃でした。長老方の執り成しにより推薦は得ましたが、牧師の言葉は胸に突き刺さったままでした。
受験合格を経て入学し、学業が始まりました。ところが第1学年の半ばを過ぎ、信徒の頃の人間関係に起因する困難な問題が神学校に報告され、学業を続ける是非を改めて問われることとなりました。その件は、社会通念上は既に解決しているものでした。しかし、それが牧師の危惧された「自分の力で困難を乗り越えようとする」罪が具現化したものでした。罪びとに過ぎないものが神のみ言葉を語り、教会に仕えることの真意を厳しく問われることとなりました。悩みぬいた末に第2学年から休学し、栃木県にあるキリスト教主義学校アジア学院で住み込みのボランティアとして労働することとなりました。アジア、アフリカ、中南米の農村部から集う学生や欧米のボランティアたちとの1年半にわたる共同生活の中で、共同体を支えるみ言葉の力を魂に刻むこととなりました。どれほど「自分で困難に打ち克つ」強さを持ったとしても、先立つものが自我であれば真実に人に仕えることはできず、しかし示された処で、なお人に仕えるものとされたとき、十字架の主が御業のために人を用いられる真理を示されることとなりました。
第2学年の途中から復学、2017年春に神学校を卒業、岐阜教会に遣わされることとなりました。3回に渡りお伝えした身上はこれにて一度筆をおきます。
9月のメッセージ
『主の御手にひかれて』―北海道編―
牧師 三輪恵愛
「主は助けを求める人の叫びを聞き、苦難から常に彼らを助け出される」
(詩編34:18)
函館生まれの母の故郷、北海道へ強い憧れを抱いていましたので、北海道教育大学函館校に進学しました。小さなアパートの一室に入居した日、引っ越しの段ボールを空けると一番上に聖書と讃美歌が置かれていました。讃美歌の裏表紙に「北海道に旅立つ恵愛君へ、最も大いなるものは愛である。第1コリント13:13 父より」と大きく筆書きされていました。この言葉に背を押されるように中学、高校と離れていた教会へ再び通い始めました。
函館相生教会の故真田卯吉牧師は、髪の毛を茶色に染めて破けジーンズで礼拝に来ても「よく来たね」と笑顔で迎えてくれました。やがて「週に1回、うちで食事をしていきなさい」と誘ってくださり、牧師館を訪ねると「まず勉強しよう」と基本的は教理を教えてくださいました。学びを終えると順子夫人が手料理を振舞ってくださいました。こうして1999年12月23日クリスマスに侵攻告白へと導かれました。
卒論では十五年戦争における関係各国の戦争責任について論じました。この分野の研究者を目指し、卒業後は札幌に転居し北海道大学日本史研究室の研究生として院試に備えることにしました。これに伴い札幌桑園教会に転入しました。
しかし父が病に倒れ進学の道は挫折します。約2年間アルバイトをしながら就職活動を重ねた末、一般企業に中途採用枠で就職しました。初任地は札幌郊外の物流拠点でした。広大な倉庫を管理する部署に配属されましたが年末年始は多忙を極めました。入社して一年が経とうとする頃、オフィスで意識をなくし救急車で搬送されました。過労による神経疾患と診断され、回復したのち本社へ異動を願い出ました。折よく欠員があった人事部に配属され、職場の環境にも恵まれ、会社での日々も充実していきました。意識喪失から回復した経験は、主の救いについて切実に捉えるきっかけとなりました。職場にも聖書を持参し、時間が空けば貪るように読みました。教会では日曜学校教師および執事に任職されました。
札幌桑園の河野行秀牧師は物静かな物腰ながら、説教への真剣さを常に身に帯びているお方でした。旧約とユダヤの事情に精通しておられ、教派にこだわらず多くの説教者を招き伝道礼拝を開いてくれました。そこでわたしは多彩な説教者の語り口を心行くまで味わいました。仲間の青年たちとも力を合わせて伝道集会を開きました。会社での充実以上に、教会での信仰生活は祝福に満たされていました。こうして少しずつ献身への志が涵養されていったように、今は思います。
8月のメッセージ
『主の御手に引かれて』 ―長崎編―
西宮中央教会 牧師 三輪 恵愛
「キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。(テモテへの手紙二1章10節)」
着任して以来、皆さまとも言葉を交わす機会が与えられ、人となりが次第に伝わることと思いますが、これより3回、月報を通して信仰の略歴をお伝えしたいと思いました。
私は、1977年に千葉県市川市で生まれました。1歳になる前に武蔵野音楽大学で教鞭をとっていた父が長崎県立女子短期大学より招聘され転居、高校を卒業するまで長崎市で育ちました。父は日本キリスト教団に籍があり、同教派の長崎馬町教会に転入しました。同志社系で、アットホームな温かさのある教会でした。4歳から友愛社会館幼稚園に通いました。ここはメソジスト系の教会の付属幼稚園でした。聖書に地盤を置いた保育を生き生きと実践するところでした。年中の担任は園長まで勤め、退職された今も手紙のやりとりをしています。年長の担任に惚れ込み「結婚する」と言ってききませんでした。それほど幼稚園で愛されていました。神の愛が保育を通して園児全員に注がれていました。
生涯に及ぶ決定的な出来事は3歳下の妹真悠子(まゆこ)の死でした。小学校1年生の時医療ミスにより意識不明に陥りました。搬送された病院で脳死と診断され、7日後に呼吸器をはずすこととなりました。涙を流し倒れんばかりに謝罪に来た医師と看護師を、かえって慰め、赦す父の傍にわたしは立っていました。目がくりくり、おかっぱで利発な可愛い妹でした。今、娘をもつ父として、それがどれほどの行為であったかを畏れをもって振り返ります。
死の直前に父の願いで病床洗礼が施されました。その時、病室の窓から差し込む赤い夕陽が額に水を注ぐ西村義臣牧師の手を照らしていました。「父と子と聖霊の名によってわたしは三輪真悠子に洗礼を授ける」。深い悲しみが光に照らされる瞬間でした。葬儀礼拝でわたしは最前列に両親に挟まれ、ちょこんとすわり、牧師の説教を聞いていました。
「真悠子ちゃんの魂は天の御国に帰った」との一言が心に響きました。その時十字架に目をあげながら、可愛い真悠子の魂はここを昇って天に帰ったことをずっと信じていきました。翌年のクリスマスに母は成人洗礼、わたしは小児洗礼へと導かれました。
中学3年での親友の死により教会から遠ざかってしまったのは、先の説教でも述べたとおりです。しかし不滅の命を約束してくださるキリストの十字架が幼年の時に命に刻み込まれたことで、わたしはほどなく福音へと立ち返ることとなりました。次回は北海道での出来事をお伝えします。
西宮中央教会 牧師 三輪 恵愛
「キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。(テモテへの手紙二1章10節)」
着任して以来、皆さまとも言葉を交わす機会が与えられ、人となりが次第に伝わることと思いますが、これより3回、月報を通して信仰の略歴をお伝えしたいと思いました。
私は、1977年に千葉県市川市で生まれました。1歳になる前に武蔵野音楽大学で教鞭をとっていた父が長崎県立女子短期大学より招聘され転居、高校を卒業するまで長崎市で育ちました。父は日本キリスト教団に籍があり、同教派の長崎馬町教会に転入しました。同志社系で、アットホームな温かさのある教会でした。4歳から友愛社会館幼稚園に通いました。ここはメソジスト系の教会の付属幼稚園でした。聖書に地盤を置いた保育を生き生きと実践するところでした。年中の担任は園長まで勤め、退職された今も手紙のやりとりをしています。年長の担任に惚れ込み「結婚する」と言ってききませんでした。それほど幼稚園で愛されていました。神の愛が保育を通して園児全員に注がれていました。
生涯に及ぶ決定的な出来事は3歳下の妹真悠子(まゆこ)の死でした。小学校1年生の時医療ミスにより意識不明に陥りました。搬送された病院で脳死と診断され、7日後に呼吸器をはずすこととなりました。涙を流し倒れんばかりに謝罪に来た医師と看護師を、かえって慰め、赦す父の傍にわたしは立っていました。目がくりくり、おかっぱで利発な可愛い妹でした。今、娘をもつ父として、それがどれほどの行為であったかを畏れをもって振り返ります。
死の直前に父の願いで病床洗礼が施されました。その時、病室の窓から差し込む赤い夕陽が額に水を注ぐ西村義臣牧師の手を照らしていました。「父と子と聖霊の名によってわたしは三輪真悠子に洗礼を授ける」。深い悲しみが光に照らされる瞬間でした。葬儀礼拝でわたしは最前列に両親に挟まれ、ちょこんとすわり、牧師の説教を聞いていました。
「真悠子ちゃんの魂は天の御国に帰った」との一言が心に響きました。その時十字架に目をあげながら、可愛い真悠子の魂はここを昇って天に帰ったことをずっと信じていきました。翌年のクリスマスに母は成人洗礼、わたしは小児洗礼へと導かれました。
中学3年での親友の死により教会から遠ざかってしまったのは、先の説教でも述べたとおりです。しかし不滅の命を約束してくださるキリストの十字架が幼年の時に命に刻み込まれたことで、わたしはほどなく福音へと立ち返ることとなりました。次回は北海道での出来事をお伝えします。
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